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たしか8月だったよな、この本買ったの。ようやく読む時間が取れました。

第百五十三回芥川賞受賞作品 又吉直樹「火花」

んじゃま、読書感想文いきまーす。

まずね、書き出しがすげえんだよ。小説のはじまり、書き出しってさ、敷居みたいなものなのね。又吉さんがどんな敷居を選んだかというと、

 大地を震わす和太鼓の律動に、甲高く鋭い笛の音が重なり響いていた。

これ読んでぼくはぶっ飛びました。文章ってのは、視覚にも、聴覚にも、味覚にも、嗅覚にも、触覚にも訴えることができる。でも、読んでくれる人の敷居を下げたいならこれはもう絶対に視覚イメージを喚起する文章を書くはずなのよ。敷居ってのは目線だから。

事実、もうひとつの芥川賞受賞作、羽田圭介「スクラップ・アンド・ビルド」の書き出しはこう。

 カーテンと窓枠の間から漏れ入る明かりは白い。

けれど、又吉直樹はそうしなかった。ぶっちゃけさ、大地を震わす和太鼓の律動に、甲高く鋭い笛の音って、装飾過多というか、いかにも文学をこじらせましたみたいな表現で、少なくとも目新しさはない。でも、あえてそういう表現を使った。「かまし」を入れたんですね。敷居を上げておいて、ドン、と落とす。これ、やべえ、と正直思った。今からどこに連れて行かれるんだろう? とワクワクしちゃった。

この小説、「師匠と弟子」ってのがひとつのテーマというか大きな「枠」としてあるのだけど、その枠を設定する以上、主人公である弟子がしなければいけないこと=命題がある。それは何かと言えば、神殺しのジレンマ。すなわち、弟子が師匠を喰らうこと(もちろん比喩的にだけど)。たとえばスターウォーズがそうだし、ドラゴンボールもそうだったし。「トン、トン、トン」ではそれができなくて「師匠」側から小説を書いたわけだけど。るろうに剣心はそこだけを取り上げれば失敗してるわけで(殺さずの誓いがそうとも言えるけど)、じゃあ「火花」はどうだったかというと。それは言えませんw ただ、そこが物語の鍵であることは間違いない。

この小説を読むとき、けっこうな割合で、又吉さんの自伝的に、私小説的に読んでしまうと思うのだけど、その読み方だと読み違えとまでは言わないが、単純にもったいない気がする。モデルはあったとしても、小説はあくまで又吉直樹が「文章」で構築した虚構の世界なのだ。ぼくは「火花」を読んで、感情が動いた。面白かった。悔しかった。又吉直樹はこれからも書き続ける人だと思った。

ともあれ、「火花」を読んだけど何がおもろいかわからんかった、という人は、師匠の存在を喰らおうとする弟子の心の動きを中心に読んでみるとまた見方が変わると思います。人間が「師匠」を持とうとする心はずる賢いものだから。

あー、でもダメだ。評論とか批評の専業って、ムズムズとかうずうずとか嫉妬とかしないのかな。ぼくの場合、面白い小説を読んでると、ムズムズが止まらなくなる。オレだったらこうする、とか、同じ方向は見ない、引っ張られないぞ(その時点で引っ張られてるんだけど)とか、同時に小説世界と自分の過去をダブらせ感傷と遊ぶ。回想はじめ。人生のある時期を京王線とともに過ごしたな、とか。23~4の頃、吉祥寺のパチ屋でスロットタコ負けして、なけなしの金でコンビニでノートとペンを買って井の頭公園のベンチに座って池を見ながら小説のプロットを書いたなあ、とか。●●ちゃんといせやで焼き鳥食ったなとか。回想終わり。

ちきしょう。楽しかったよ。ちきしょう。まいった。又吉さんタメなんだよね。クソ。今に見ておれ。追撃の寿が参る。

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