三島由紀夫「剣」から
スロ小説♯30
本作はフィクションであり、実際の人物、団体、事件などとは一切関係ありません。
赤いライオン、或るスロッターの明るい部屋 ♯31
「おい、ルイ。ちょっと走るぞ」レンくんは俺に耳打ちすると、走り出した。
「へ……」
レンくんは停まっていたタクシーに乗り込むと、「甲州街道を目指して」と言った。
静かにドアが閉まり、タクシーが発進する。
「レンくん、何がどうなってんの?」息を切らして俺は言う。
「うーん、ちょっと後悔してる……」
「は?」
「おれに1億の価値なんてあるはずがない。ということは、りんぼさんがついたのは嘘か。あるいは、本当におまえにそれだけの価値があるか」
「俺?」
「どっちにしろ、めんどくせえことが起きる確率は、100パーだ」
「ねえ、おれが巻き込まれたの? それとも、レンくんがおれを巻き込んだの?」
「それどっちも同じ意味だろ」そう言ってレンくんは笑った。「まあ一度しかない人生、できるだけめんどくせえ道を選ばねえとな」
「めんどくさいの嫌なんですけど」
「そうだな。でも、めんどくさいの向こうにしか気持ちいいことはない」
「ねえ、ちょっと思ったんだけど」俺は言った。
「ん?」
「レンくんの記憶自体が捏造されてるっていう可能性はないんかな」
「それなあ、おれも考えたんだよ。でも結局、自己懐疑を自己の正当性の証明にするしかないんだわ。『我思う、ゆえに、我あり』デカルトな」
「高卒にしては知識量ありすぎだし」
「出た。偏見マニア。大学なんて勉強すれば誰だって入れるじゃねえか。誰でもできることに価値なんてない。ベンジャミン・フランクリンは教育をほとんど受けずにアメリカの大統領になった。『天は自ら助くるものを助く』『時は金なり』聞いたことあるだろ? それらの言葉は、学校教育とは無関係の場所から生まれた」
「そういうことは覚えてるのに記憶がない」
「記憶がないわけじゃない」レンくんは言う。「おれという人間が誰かがわからないだけだ」
「えっらそうに……」
「……甲州街道着きますよ」ドライバーが低い声で言った。
「世田谷方面で」レンくんは言った。
「かしこまりました」
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「ここでお願いします」とレンくんは言い、表示されたメーター分のお金を払い、俺たちはタクシーを下りた。
「何すんの?」
「ラーメンを食べる」
「は?」
「腹減っただろ」
「……」
「家系って、癖になるよな」とレンくんは言う。「何だろうな。とんこつ醤油のスープ、ほうれん草、パリパリの海苔、チャーシュー、太麺……」
麺をずるずるとすする。
「たしかにうまいけどさあ」
麺をずるずるとすする。
「こんなことしてる場合なの?」と俺は言った。言いながら、ずるずると麺をすする。ずるずると麺をすすり、缶ビールを飲む。缶ビールを飲んで、ラーメンをすする。
「初めて食べたときはそうでもなかったんだよ。でもさ、2回、3回、4回と回を重ねるごとに、体の中に回路ができちゃうんだよな」レンくんはまだ喋っている。
スープを飲む。スープを飲んで、ずるずると麺をすする。
「人間ってさ、わかりやすいのが好きなんだよ。逆に言うとわかりにくいものが苦手なんだよ」
レンくんはなおも講釈を続ける。そんなに何かを教えるのが好きなら、学校の先生か何かになればいいのに、と思いながら、ラーメンをすする。
「ラーメンを語りたがる人間が山ほどいるのは、わかりやすいからなんだ。わかるか?」
「うるせえのはわかる」
「味を判断する能力が低ければ低いほど語りたくなっちゃうんだぜ」
「あんたがな」
「真実はいつもシンプルだ、と言った作家がいたが、違う。人間の頭は単純なものしか理解できないんだ」
「レンくん、いいから黙って食えよ」
「スーパードライ飲んでこれうめえええとか言ってるやつとかな。味だけで言えば、あのビールはどの角度から検討しても味がしない。香りもしない。あるのはノド越しの爽快さ、だけだ。だからこそ語る対象になる。脂っこいものが好きなやつも。辛いものが好きなやつも、全部そうだ。単純だから語れるんだ」
「うるせえっつってんだろ。スーパードライうまいじゃんか……」グビグビと缶のスーパードライを飲み干して言った。「ねえレンくん、今気づいたんだけど、さては酔ってるな?」
「ちょっちねえ」
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「ごちそうさま」と言って外に出た。
「さて、と。腹もふくれたところで」とレンくんは言った。「戦闘開始といきますか」
「は?」
「こっちから攻めよう」
「誰を?」
「ハーデス、だろ」
「指示がない限り動くなってりんぼさんに言われてたじゃん」
「めんどくさいを打破するには行動あるのみ」
「は? つうかどうやって攻めるんだよ」
「ハーデスが住んでるのはこの裏なんだよ」
「……」
「おれらが攻めてくるなんて思いもしないだろ?」
つづく