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※今日の記事は普段よりちょびっと味が濃いです(_´Д`) アイーン
時間あるときに読んでみてね。



何でも、ブログの価値というのは、1PVあたり、0.2~0.3円くらいだそうな。この数字はイケダハヤトさんのブログから。つまり、生活できるレベルのブログに必要なPVは、最低でも月に100万ということだろう。収益化、というのが主目的であれば、の話。

このブログは、というと、5月、6月が6万(PV)くらい。7月は4万5千くらい。8月はたぶん5万弱くらい。つまり最高でも月額18000円という価値だそうだ。へへへ。一年半毎日書いててもそんなものなのねん。

無論、ブログとはいえ、創作活動に変わりはなく、創作活動には元手が必要である。元手とは大きくふたつ。「お金」と「時間」である。

時間はたっぷりある。それはそうだ。無職なのだ。じゃあもうひとつの元手は? こほん。ぼくの創作活動のパトロンはパチ屋である。こんなことを言うと、偽善的で鼻持ちならないクソ野郎と思われるかもしれない。が、このブログはある意味で、パチ屋への恩返しである。あるいはぼくの中で燻る漠然とした罪悪感の披瀝である。怒らば怒れ、笑わば笑え。こればっかりはどうしようもない。事実なのだから。

ただ、ぼくは自分のために文章を書いている。伝えたいことは山ほどあるけれど、誰かのために書いているわけじゃなくて、基本、根本、自分のために書いてる。あわよくば人の心を揺らすことができたらな、そう願いつつ、書いている。書き殴り、書き散らかしている。

人を傷つけるつもりは毛頭ないが、自分が嫌なもののアンチテーゼにならなきゃいけないという使命感はある。ごめんね。ぼくは基本的にあらゆる集団に不信感を持ってます。それは集団に属する可能性のある自分も含めての話。個人としてのぼくはそれほど害はない。せいぜい酒場で管を巻くか、文章でイキるくらいが関の山。が、集団としてのぼくは人に害を及ぼす可能性がけっこうある。それは自分でも重々承知している。

集団の形成には、必ず「善き物語」が語られる。しかし、人間は自分にとって都合のよい物語が大好きなのだ。宝くじの当たる可能性もそうだし、昨今の「ここがクールだジャパン! コンテンツ」もそう。

では、アフィリエイターやユーチューバー等、元手はいらない。しかし可能性は無限大。さあ、あなたもネットビジネスをはじめてみよう! という物語はどうだろう? いや、ネットビジネスという枠でくくるのはよくないか。ネットビジネスじたいは悪いものじゃない。楽天もイーベイもアマゾンも全部ネットビジネスなのだ。それがどれだけ旧世界の既得権益や雇用を奪っていても、利便性は何ものをもってしても代えがたい。悪いのは、もちろん悪意である。それと、善きことを他人に押し付けようとする態度である。

まあ、これは飛躍しすぎとは思うけど、ネズミ講にしても理不尽な上下関係を強いられる集まりにしても一部のカルト宗教にしてもそうだけど、末端に大きな負担がかかる集団モデルって、本人の意図する意図しないにかかわらず、サイコパス(精神病質、あるいは反社会的人格)をモデルにしてるような気がするのね。サイコパスの思考原理を集団形成のメソッドに使ってる、というか。

自分のために文章を書いているぼくと、自分のお金儲けの手段に他人を巻き込もうとする人の違いがどこにあるかといえば、うーん、わからない。ないのかもしれない。でも、おれとしては、違わい、と思う。そして言う。(小さな声で)違わい。と。

       ΦΦΦ

色々言われてるけど、孫正義が現代日本の一大成功者ということは誰もが認めざるを得ないと思う。彼はこんなことを言っている。理念があって、ビジョンがあって、戦略があって、戦術があって、計画がある、と。理念を実現させるためにビジョンがあって、そのための戦略があって、戦術があって、それでようやく計画が立てられる。が、普通の会社は「計画」ばかりを語る。そんなことをカンブリア宮殿(だっけな?)で語っていた。

要は順序だ。

①理念
②ビジョン
③戦略
④戦術
⑤計画

じゃあ理念って何? という話になるんだけど、これはプラトンの言う「イデア」のことだろう。理、というものの究極の形。もう少し実用的な言葉で言うとアイデンティティ。「ハート」とか「核」でもいいんだけど、ネットビジネスを語るうえで、こういう建前的な、けれど会社にとって最も大切な「アイデンティティ」の言語化に取り組んでる人はどれくらいいるんだろう?

ほとんどの場合、その器に収まるのは「金」なんだろうな、と思うんだ。仕組みさえつくってしまえば、後は寝ていても金が入ってくる。それはたしかにそうなのかもしれないけど、「イデア」って唯一無二であり、固有で絶対的な領域であり、これは借り物ではナントモならんと思うのね。会社化して定款をつくればいいってもんじゃない。

売り抜けてやるんだ、って考えならいいかもしれないけど、人生を賭そう捧げようとしているのだとしたら、やっぱ「核」たる魂が必要なんだよ。こんなことを言うと熱い男みたいに思われるかもしれないけど、そうじゃなくて、論理の話。ものごとには順序が必要だと思うんです。

こんなことを言いつつ、自分の書くものが商品として通用しなければ、ただのオナニーでしかないってのもね、これも重々わかってるんす。

ぼくが37歳で「書くこと、賭けること」を打ち止めしようとしてる最大の理由は、十代の潜伏期に出会った「宮沢賢治」と「ファン・ゴッホ」の共通点なんよね。

日本語で生活してて宮沢賢治の影響を受けてない人間はほぼいないし(日本人の潜在意識そのものを変えた人だから)、フィンセント・ファン・ゴッホの絵を一度も見たことがないという人もほぼいないと思うんだけど、賢治の場合、生前に発売されたのは自費出版同然で出された「春と修羅」「注文の多い料理店」のみ(あんまり売れなかった)、寄稿した作品もいくつかあったが、原稿料をもらったのは一作のみ、5円しか受け取っていないという。ゴッホはゴッホで、生前に売れたのは友人(詩人)の姉(画家)が買ってくれた「赤い葡萄畑」という一点だけだった。ゴッホは1890年7月29日に、賢治は1933年9月21日に、それぞれ37歳で亡くなっている。

       ΦΦΦ

両者がぼくの頭の中で結びついたのが十代の終わりで、そのときからずっと考え続けていることが、

1、残る作品と残らない作品の差はどこにあるんだろう?

2、受け入れられる(売れる)作品と、受け入れられない(売れない)作品の差はどこにあるんだろう?

ということ。

後世に残る、という観点で見れば、賢治の作品も、ゴッホの作品も、これ以上ないくらいの成功を収めた。たぶん次の100年も残るはず。でも、売れる売れないで言えば、生前はちっとも評価されなかった。たとえばゴッホと同じ時代の画家であるモネは今に残る作品を山ほど描いたうえに、自宅の池に日本庭園的な橋をかけちゃうくらいの成功者だったし、たとえば賢治と同時代人の谷崎は神童と言われ、デビューから旺盛に作品を書き続け、晩年には日本人初の全米芸術院・米国文学芸術アカデミーの名誉会員に選ばれるくらいの成功者なわけで。

では、何が生前の成功/非成功を分けたか?

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クロード・モネ「ルエルの眺め」

※現存する最も初期作品、17歳のモネの描いた作品

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クロード・モネ「ラ・ジャポネーズ」

※風景画で名を馳せたモネが、奥さんをモデルにした人物画。


もちろん、モネの描写力や、谷崎の超絶技巧的な文章っていう一目瞭然性、というのもある。



かつて漱石先生は「草枕」の中で羊羹の色を賛美しておられたことがあったが、そう云えばあの色などはやはり瞑想的ではないか。玉のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光りを吸い取って夢みる如きほの明るさをかんでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。クリームなどはあれに比べると何と云う浅はかさ、単純さであろう。だがその羊羹の色あいも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる。人はあの冷たく滑らかなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。

谷崎潤一郎「陰影礼賛」より ※かんでいる感じの「か」んで、は原文では「口へんに卸」

短い文章の中に現れる句読点の位置の正確さ、色みと温度、巧みな比喩をつかった描写力、筆者の声が聞こえてくるような説得力。西洋をくさしておいて、最後にはオチまで。すげえ。



ただ、一目瞭然性は、天才のみに許された特権的な、議論の余地のない才能なわけで、そこを論じても、ぼくという凡人の道しるべにはならない。

言語化できることで言えば、「プロデュース力」の差だと思うんよね。賢治にしても、ゴッホにしても、100年を生き抜くほどの「作品」に込められた「理念」を持ちながら、作品を売るための落とし込み、あるいは経済観念とのすりあわせができなかった。もちろん、ワイは作家や、そんなものを考える必要なんてあらへん。そんなことを考えるくらいなら一作でも多く書くで。ばりに作品に没頭し、人生を賭けていた、とも言えるのだけど、もし仮に、売れたいと望むのであれば、その力はあってしかるべきだ。あるいは誰かの手が。たとえば宮崎駿や高畑勲にとっての「鈴木敏夫」みたいな存在が。

       ΦΦΦ

誰かぼくをプロデュースしてください。お願いします。

       ΦΦΦ

こほん(気を取り直して)。とにかく37歳までは、思うままに、目一杯自分勝手に修行したい。それでダメなら気分を変えて、社会に戻りつつ、別の角度から機会をうかがいたい。

当面のお金の心配をしなくて済むのは、家族の存在と、パチ屋のおかげだ。本当にありがとう。

てなわけで、どうして一円にもならないことを毎日毎日してんだ、頭大丈夫? とお思いのみなさん。お気になさらず。パチ屋がなくなった世界には、「書くこと、賭けること」は存在しない。
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これは彼が師匠なんてあだ名で呼ばれるようになる前の話

パチ屋のなくなった世界で