タワーオブメタファー
フロムウィキ
街は利便性から生まれた。だからすべての街には入り口があり出口がある。人間の流動にともない、街は拡張、縮小を繰り返し、成長したり衰退したりする。人のいるところ、人がいる。海、山、川、森、道、塔、公園。しかしそれでも居場所が見つからない人間もいる。
小説は、居場所がある人間にはまったく必要のないシロモノである。 現代の価値観「価値≠金銭」における1時間の価値は、おそらく人類誕生以来最も高いだろう。高い、というのは、自らが払うコストの高低ではない。 むしろ、時間をつぶすためのヴァリエーションは史上最多、また、そのコストは最安値を更新中である。それは我々がそう望んだからだ。時間は逆行しない。だから小説が、かつてのように娯楽あるいは芸術の中心に、あるいは求心力として機能することはない。
が、それでも、この素晴らしくもお気楽な世界にも、零れ落ちてしまう人がいる。
自分がどこにいるかわからない。他者との距離の詰め方も測り方もわからない。どこに行っていいかわからないし、何をすればいいかもわからない。
「居場所はどこにある?」
でも、誰かが与えてくれる答えでは嫌だ。それは自分で見つけるのだ。そういう人だけが、この面倒で時間のかかる「文章」の世界に紛れ込み、しばしの間、身を潜めて考える。こんなことを書くと語弊を招くかもしれないが、芸術(ART)の対義語が自然(NATURE)であるように、小説の対義語は、政治である。小説の対義語は、集団である。小説の対義語は、抑圧である。少なくともぼくはそう思っている。
ぼくは嘘をついている。が、ぼくは嘘だけは絶対につかない。
ようこそ。小説へ。読んでくれてありがとう。
書くこと、賭けること 寿
とまあ、かちゃかちゃカッコつけたところで、ひとつ感想を紹介したい。「街の性感帯」7篇中、4番目の作品、
花が咲いていた
に対してのもので、離れた土地に住む妹からのものである(インターネットは世界をつないでいる)。
「冒頭の文章に嫌悪感があって、先の文章が頭に入ってこなかった。この主人公の元彼女は、キレイな花にだけ興味のある(ことをアピールする)クソ女ということでしょうか。プランターの花は(必ず)見るのに、道端に咲く花は無視? そんなやつとつきあうのが悪いのでは。以上」
んんと、ええと(困惑)。どゆこと?
「花が咲いていた」冒頭の文章を振り返ってみよう。
花。三十年近く生きてきて、道端に咲く花の存在に初めて気がついた。視界に入っていなかっただなんてありえないのだから、やはりこれはおれが無視していたということなんだろう。だけどそれも自発的に気づくとかそんなんじゃなくて、花を見つけるたびに足を止める女性と付き合っていたから、そしてその彼女と別れたから、というサブイ理由に過ぎない。
妹は、初めて気がついた、という文章に引っかかったらしい。道端にある花に初めて気づいたということは、彼女とつきあっているときは気づいていない、すなわち、その女性は道端に咲く花の存在には目もくれず、プランターやら、花屋やら、活けられている花(を見る自分、あるいはそんな自分をアピールすること)にしか興味のないクソ女、ということらしい。
何という論理的な嫌悪感。おまえ、すげえな、とぼくは思った。小説を書いた本人、つまりぼくは、この主人公の元カノの人物造形をふわふわっとしかつくっていなくて、どれくらいふわふわっとしてるかというと、「常に彼氏のいる女性」くらいのふわふわ感。
しかし妹は、この短い文章から、この主人公の元カノという人物をビシっと組み立て、その自分の組み立てた人物に腹を立てて、そんな女とつきあっていた男の物語なんて読みたくねえ、と言ったのだw すげえ。まったく予期していなかった感想に、ぼくは手を叩いて喜んだ。
しかし、まさにこの小説は、そのような感情の行き違い、ミスコミニュケーションについて、一方の意見を一方的に語った作品であり、主人公の元カノがクソ女であるかどうかはともかく、ダメ男の懺悔譚である。
この男は、花を主体的に眺めたことが一度もなかった。にもかかわらず、元カノがいなくなった途端、道端に咲く花の存在に気づいてしまう。
そこにあるのは、甘え、である。そこにしか咲かない花を、「そこ」が存在しなくなった瞬間に欲しい、と嘆く甘えである。それはどこか、アルコールしかりギャンブルしかり、セックスしかり、依存症の問題に似ている。この男は、その女性をフッテいる。新しい女を追いたくなったのか、いったんは彼女に嫌気がさしたのか、どんな理由かは名言されていないが、何らかの理由でフッテいる。その後、彼が新たに得る認識がこれだ。
花は独り占めできない。それは新しい認識だった。
それが新しい認識ということは、彼はそれまで、独り占めできると思っていたのだ。それも、何の疑いもなく。30年近くその認識で生活できていた時点で、大分ラッキーボーイである。
が、その認識を手に入れたことで、彼の人生は変節を迎えるはずだ。人生はたぶん、「認識」することではじまる。それがどれだけしんどい「現実」だとしても、「認識」することこそが、「現実」に立ち向かう第一歩である。ぼくはそう信じている。
嫌悪感は、ある種のリアリティの証拠品だよね。ぼくはそう解釈した。妹よ、ありがとう。
寿の短篇集1「街の性感帯」