IMG_4955

限度をこさぬ快楽なんて、快楽のうちに入るかしら?

マルキ・ド・サド「新ジュスティーヌ抄」から

作品のカバー絵
東洲斎写楽「三世沢村宗十郎の大岸蔵人」

まえがきみたいなもの 

街の性感帯

1、上野公園
        
2、卒業式
        
3、東京タワー
       
4、花が咲いていた
      
5、wtf? 3days 140000YEN! あとがきみたいなもの

酔ったら文章は書かない、と決めているのだけど、酔って書いたらどうなるか、という実験作品。

酔った状態で、さらに酒を片手にブログのマイページを開き、つらつら書き始め、書き終わったのは朝方だった。ぶっ倒れ、死んだように眠り、7時間後に起きて、ゆらゆら揺れながら「ふおおおおおお」と叫び、糖分とカフェインで脳を騙し騙し推敲作業に入った。意味が判然としない箇所は削り、論理的な整合性が取れていない箇所は補強した。が、基本的な流れはいじっていない。そのおかげか、寿としては珍しく、エンターテイメンツな小品になったかな、と思う(何で自画自賛やねん)。まだ酔ってるのかも。いかんいかん。顔洗ってこよ。

マジメな話、このご時勢、社、あるいは店を愛する経営者から見て、キャッチセールスは、費用対効果はおろか、魅力的な選択肢にはとても思えないはずである。何せ、ぼったくった瞬間に、その店のリピーターになる客はいなくなる。いや、いたとしても、彼の目的は、消費者としてではなく、リベンジャーあるいはテロリストとしてだろう。品物の真贋を問わず、とにかく否応なく売ってしまえという経営方針には、中長期的な視点は感じられない。つまり、その店で働くキャッチ、キャスト、あるいはボーイは、かなりのリスクを負っている。

だが、そこにはある種の真実もある。我々のなじみ深き場所と同じ種類の真実が。そう、世界は単純に、パチ屋と同じように回っている。ものを売ったり、その場所に来てもらう、その根幹にあるものは「ファンタジー」なのだ。ファンタジーとは何か。脳を騙す、ということである。

       ΦΦΦ

お金って何やろ、と時々思う。スロッターがパチ屋で使うお金はお金であってお金じゃない。スロッターがパチ屋から得る勝ち金は、勝ち金であって、勝ち金じゃない。
お金だって「騙し」のひとつである。政府の思惑、市場の思惑、全世界的なファンタジーが一万円の価値を定めているに過ぎない。ファンタジーがなければただの紙だ。

キャッチセールスの首謀者は、人間でなく、お金なんじゃねえの。そんな風にも思う。悪い人間などいない。ただお金が欲しいだけなのだ。そう考えてみると、人間が金を失うシステムが見えてくる。

どうも。夜のカモネギこと寿です。

当方隠れシャイなので、現実の世界で自己紹介するのは全然というかまったく好きじゃないのに、文章にするのは何でだろう、すげえ好き。つうか、自己紹介をしたいがためにこの短篇を書いたみたいなもの。でも、厳密に言えば自己じゃないんだよね。自己でも事実でも過去でもなくて、ありうべき可能性の紹介。小説ってそういうものなんだな、と今、思いました。

明日も短篇をアップします。