地上的な希望はとことんまで打ちのめされなければならぬ。そのときだけひとは真の希望で自分自身を救うことができる。
フランツ・カフカ「城」から
まえがきのようなもの
街の性感帯
1、上野公園
2、卒業式
3、 東京タワー
女は道端に座り込み、ゲロを吐いている。
断続的に襲ってくるであろう吐き気に体をふるわせながら。
おれは自動販売機でボルヴィックを買い、女に手渡した。ううえええええええええ。えあ、ありがとう。
女は水を一口飲み、再び胃の中のものを路上に撒き散らす。
うげげえげっげげげげげえええ。 ……ごべんね。
いや、いいんだよ。そう言いながら、少し屈んで女の背中をさする。おれのツレとこの女のツレは、さっさとどこかに去っていった。今頃、仲良く宙を流離っているのだろう。おれは……おれは女の背中をさすっている。ちぇ。
えずきの止まらない状態で、女が何かを言おうとする。
「ご、ご、ごべんね」
「……いいって」
言いながら、あたりを見渡した。前方に電気の消えた東京タワー。土曜の深夜だというのに、人通りはほとんどなかった。深夜っていうかもう日曜の早朝か。
おれは再び女の背中をさすりだす。そのうちにブラジャーの留め具に手が当たり、この子に声をかけた動機、そう、性欲が甦って辟易した。こんなことで一度甦った性欲がどこかへ消えてくれるはずもないが、まぎらわすために女の背中をさすり続けた。
ごめんね……何度目になるだろう言葉を女は呟いた。
女はボルヴィックを口に含み、右手の甲で口元を拭うと、行こっか、と言って立ち上がり、左手を差し出した。右手で女の手を握り、おれたちは東京タワーの方向に歩き出す。
「大丈夫?」おれは声をかける。
「たぶん」女はおれを見ずに言う。
「どこかで休む?」
出し抜けに、「わたし、お金ないよ」と女は言った。
――お金がない。
この瞬間、ナンパの目的はほぼ達成したと言っていい。
「大丈夫」おれはそう言うと、手を高く上げ、タクシーを拾った。
「どこか泊まれるようなところ。ラブホでいいから一番近いとこで」
――かしこまりました。
父親よりも年上だろう、小柄な運転手だった。タクシーはUターンし、赤坂方面に向かって進んでいく。あー、渋谷って言っとけば良かったな、と後悔。おれも酔ってんのか? 女はおれの腕にしがみついたまま、目を閉じている。
「到着しました」
運転手に金を支払い、女を起こし、タクシーの外に出た。
二つしか空部屋がなく(どちらも値段は一緒だった)、近い方の部屋のタッチパネルを押してエレベーターに乗った。宿泊料一万六千円。やはり高い。ちぇ。三倍近くすんじゃね? 風俗行くのと変わんねえな、これじゃ。が、いまさら何を言ってもしょうがない。原因不明の使命感にうながされ、彼女の腕を引いて部屋に入った。入った瞬間ぎょっとした。ベッドが舟の形なのだ。
青い畳の部屋に浮かぶ金色の舟。酔う以前、あるいはほろ酔い状態だったらテンションが上がるのかもしれない。が、おれの隣には瀕死の女がいるばかり。女は形状などどこ吹く風と、舟に倒れこんだ。
ごめんね。彼女が言う。
いいんだよ。おれが言う。
何度も繰り返される謝罪と許容。本当は逆なのかもしれなかった。キスをした。優しく一回。次いで舌を唇の中に滑り込ませる。生暖かい、酸っぱくて苦い、青春から遠く離れたしんどい味だった。それでもおれはひるまない。裸になって抱き合った。最低、最悪、クソ野郎、どんな烙印を押されたとしても、それでも手を出さないわけにはいかないんだ。コンドームをつけて挿入すると、女は高い声をあげた。さっきまでのあれは何だったんだ? 演技? なわけないか。まあいいや。気持ちよきゃ何でもいいや。
いてててて。腹痛で起きた。トイレに向かう。と、女がトイレの前で寝ているのが見えた。
「こんなとこで寝てっと風邪ひくぞ」
おれは女を立ち上がらせ、ベッドに運んだ。その後でトイレに戻る。
ちぇ。どうして和式なんだ……。
辟易しながらも、窮屈な体勢で排泄しようとすると、がたん、という音がドアの外から聞こえた。
何だ? 早くすっきりしたいというのに……。
猛烈な便意を意志の力で翻し、ドアを開けた。
女が再び転がっている。
「どうしたの?」
「ベッドで寝てると酔うの……」
おいおい。こんなところにいられたら、おちおち排泄ができないじゃないか。まさかベッドが舟の形をしてるからか? 最悪だ……
とにかく畳の部屋に行こうよ。布団持って来てあげるから。
うん。
女を畳まで運び、布団をかけた。
ちぇ。復活したのはセックスの時だけじゃないか。何だっておれは、こんな女に声をかけてしまったんだろう。
ぎゅるぎゅると不吉な音が腸から聞こえる。もう限界だ。トイレに入る。
……やっとできると思ったのも束の間、再びトイレの前でガタン、という音。
もういい加減にしてくれ。
ドアを開けると、目の前に女が横たわっている。
どうしたの?
船、船見てると気持ち悪いの。
……
おれね、うんこしたいんだ。だから、そこにいられると気まずいんだ。
そう言えればどんなに楽か。
おれはベッドに戻り、少し考えてみることにした。
もしかしたら、便意なんて存在しないんじゃないか?
目を閉じる。波が少し引いていく。よしこれなら……
が、誰もが知っている通り、便意の後退は、津波の前兆のようなものである。引いたものは、必ず返ってくる。しかも倍化して。ほら。ほらほらほらほら。体全体が便意に震えるような自己主張。
……ダ、ダメだ。もう、ダメだ。でも、どうすればいい? トイレの前には地獄の門番のように、女が横たわっているのだ。
脂汗がにじむ。
ふと、小学生の頃、授業中にこんな状況になったことを思い出した。あの時おれはどうした? ピンチを脱出したじゃないか。漏らすという方法を使って。おかげで、ウンコマンというあだ名を頂戴したのだった。違う。おれは頭を振る。おれはウンコマンなんかじゃない。今のおれはマンだ。大人なんだ。良識の有無は別にして、年齢の上では二十歳を過ぎているんだ。ここで漏らすわけにはいかないのだ。
あ、と思った。
女性がするように、トイレの水を最初に流す作戦をすればいいんじゃないか?
天才現る! よし。慎重に、繊細にことにあたれば、必ずやミッションはコンプリートできるはず。がんばれ。がんばる。お腹を押さえながら、ケルベロスをまたぎ、トイレに入った。
水を流す、よし、今だ。
体の力を一点に集中させ、全ての雑音を振り払うように放出した。
はあ、はあ、はあ、はあ。
炎天下の校庭で全力疾走した後のように、体中から汗が噴出していた。
何とか……なっ……、……、……。
あれ?
あれ?
あれ?????
目を開けると、おれは舟の形をしたベッドの上にいた。……そして嫌な感触が肛門にあった。
おい。
おいおい。
おいおいおい。
おいおいおいおい。
……これは、どういうことだ?
……出てくる汗が尋常ではない。
バッドで痛打されたようにこめかみが痛んだ。が、それでもかまわず記憶をたぐった。
昨日おれは何をした?
友だちとクラブでナンパして、テキーラを一気しまくったところまでは覚えている。
それで、それから……それからどうした?
この女は誰だ?
おれも女も素っ裸である。
セックスはしたのか? してないのか? いや、今はそれどころじゃない。何を考えてるんだ。
「どうしたの?」女が眠そうな声で目を開けずに言った。
「ど、どどどどうもしないよ」
100%の確率で捕まる犯人みたいな喋り方になってしまった。幸い、ケツは女の逆を向いていたから、まだ気づかれてはいない。たぶん。
どうしよう。ど、どどどどどどどうしよう。
すー、すー、すー、すー。
……寝たな?
慎重に起き上がり、ベッドの下に散乱する服を着て、忍者のような集中力で部屋から出た。靴を履いて、廊下に駆け出した。エレベーターを降りて外に出ると、真昼の太陽が街を照らしていた。
ここはどこなんだ? ケツが痒い。十分くらい歩くと、東京タワーが見えた。しかしケツが痒い。それよりもつらいのは、ノドの乾きだった。自販機でボルヴィックを買って浴びるように飲んだ。……途端に吐き気がこみあげてきて、道端の排水溝めがけてゲロを吐いた。 ゲロとともに出てきた涙で前が見えなかった。携帯が鳴っていた。
「ふぁい」と言った。
「今どこ?」女の声だった。
「え? 誰?」
「誰じゃないでしょ。どういうこと? これ、どういう種類の放置プレイなの? 今すぐ戻ってきて」
「……はい」
その後、おれはこの女と結婚した。そしてふたりして酒をやめることにした。今? 今はけっこう幸せである。
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東京タワー、について