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どこかの明かり

花はね、植物の生殖器なんですよ。何でみんなね、こうね、たとえばお母さん達が、花なんて触っちゃいけません、とかって言わないのか、面白いな、と思って。だって学名ラビアですよ。

中野信子

まえがきのようなもの 

街の性感帯
1、上野公園
2、卒業式
3、東京タワー
4、花が咲いていた

 花。三十年近く生きてきて、道端に咲く花の存在に初めて気がついた。視界に入っていなかっただなんてありえないのだから、やはりこれはおれが無視していたということなんだろう。だけどそれも自発的に気づくとかそんなんじゃなくて、花を見つけるたびに足を止める女性と付き合っていたから、そしてその彼女と別れたから、というサブイ理由に過ぎない。


 でも、おかしくないか? おまえが告白しておれたちは付き合い始めたんじゃなかったか? ……おかしくなんかないか。

 足を止め、この、食べ終えたアサリを二つくっつけたような格好の、鮮やかなオレンジ色の花は何という花だろうか、と考えてみた。まったくわからない。想像することもできない。でも、何だかとても愛らしい。気持ち悪……胃弱な彼女が飲んだ翌朝必ず口にした文句を呟いてみる。ほんと、きもちわりい。自分が、自分を。
 

「どうか神様、頼むから時間を巻き戻してください。あの日に戻ってくれたなら、もうおれは彼女にあんなこと言わないから。絶対に言わないから。だからお願いします」

 街を歩く。花を見かけるたびに立ち止まる。不覚にも泣きそうになる。弱い弱いよ。今ならもれなく幼稚園児に喧嘩で負けちゃうよ。

 元気出せよ。女なんて世界中にたくさんいるんだからさ、そんな台詞の出てくる漫画を読んだ。うるせえ。彼女が二人も三人も四人も五人も十人も二十人もいるんなら、おれはこんな気持ちになってない。ひとりだから会いたいんだ。そんな文句を言う相手もいない。こういう時ペットを飼っている人間を羨ましく思う。けれどおれは世話なんてできない。完全無欠の自信がある。糞。

       ΦΦΦ
 

 夜、窓を開けて叫びたくなる。が、理性が働き衝動はリセット。しかたなく、眠ったふりをする。いつからいつまで? 夜から朝まで。気が狂いそう。壊れそう。

 日に日に体重が減っていく。ダイエットにはマジでおすすめ! しかしおれはハナから痩せていて、ただでさえ頬がこけている。骸骨というあだ名をつけられたらどうしよう。

 そんなことをまどろみながら考えて、こりゃまずい、とすぐに服を着替え、ファミリーレストランに赴いてビーフステーキ300グラムを注文した。ジュウジュウと鉄板の上の肉は音を発している。フォークとナイフを使って肉を食らう。食らう。食らう。牛肉よ、おれの血となれ肉となれ骨となれ脂肪となれ。栄養よ、体の隅々まで行き渡れ。

 気分が悪くなってきて、水をガブガブ飲んだ。急激に冷えていく僕の体と鉄板の上の牛肉。僕はいったい何をしているんだろう。ああ、僕とか言ってしまった。あかん。退行である。おれは何歳から自分の呼称を僕からおれにシフトしたんだったか? 幼稚園の頃だろうか、それとも小学校に上がってからだろうか。どんなに頑張っても思い出せなかった。

 冷たくなった牛肉に、おれはもう手を伸ばせなかった。会計を済まして外に出て、フラフラと歩いた。歩いているうちに駅に着き、電車に乗って、三つ先の駅で下車。おいおい、と思ううちに、彼女の住むマンションの前に立っていた。

 その建物は以前とまったく変わらないはずなのに、どうしてだろう、色褪せたように見える。マンションの前にはいくつかのプランターが置いてあり、名前はわからないが、ピンク色の花と赤い花が咲いていた。

 そういえば、彼女はここを通るたびに足を止めていた。がたんがたーん、がたんがたーん、がたんがたーん、という気分だった。意味不明。まこと、意味不明。涙が出そう。いや、実際に出ていた。

「大丈夫かい?」という声に振り向くと、老婆が立っていた。紙切れのようなジーンズを穿き、ところどころしょうゆか何かの染みのついた割烹着を着た老婆は、手にコンビニ袋を持ち、けれど袋の中には何も入っておらず、ヒラヒラ風に吹かれて踊っていた。

「すいません」とおれは言った。「大丈夫です。大丈夫です」

 老婆はおれの返答を意識してか、うん、うん、と二回うなずいた後、去った。おれは涙をぬぐい、七階、彼女の部屋のベランダを見上げた。だけどここからでは何も見えない。もう一度、会いたい。近隣住民から不審者と思われようと、彼女からストーカーと蔑まれようと、会いたいものは会いたくて、だけど、おれの自我がそれはまずいと警笛を鳴らすのだった。何て理性的、何て、抑制的。

 結局、去ることにした。彼女のマンションに、おれは頭を下げた。ごめん、ということではない。そういうのではなくて、神社仏閣、あるいは目上の人に対して頭を下げたくなるあの感じだった。おれは振り返らずに歩いた。強い気持ちでぐんぐん歩いた。が、このまま帰ることはできなかった。昼から人間を酔わすなんてけしからん店だ、とか何とか考えながら駅前の立ち飲み屋に入り、生ビールをもらう。煮込みを頼む。ビールを一口飲んで、煮込みに七味唐辛子をぶっかけて、割り箸を割り、大根やらニンジンやらブタか鳥の内臓やら何やらをほふほふと口に運んだ。ビールを飲む。煮込みを食べて、ビールを飲む。ビールがなくなりお代わりをもらう。ついでに枝豆と、蓮根と豚肉のはさみ揚げを注文する。

 右手の親指と人差し指で豆を挟み出して、口に入れる。手についた塩をおしぼりでぬぐう。ビールを飲む。揚げたての蓮根はすさまじく熱く、食道を過ぎてもまだ熱かった。ビールを流し込んで中和。ふう。

 ビールに飽きてきて、レモンサワーを頼む。ぶっ飛ぶくらい焼酎の量が多いレモンサワーで、真夏の太陽を直視するみたいにクラクラした。レモンなんて香りだけしか入ってねえんじゃねえか。トイレの芳香剤みたいなものを入れてんじゃねえか。立って飲むのに疲れてきたのもあって、勘定をして店を出た。別の店に入った。そこは以前彼女とよく来た小料理屋だった。どうしてもここのエビシンジョが食べたかったのだ。ムチムチとして熱々の、それでいてほっくりとした、しかもツルンと食べられるエビシンジョを。
 

 慣れた店の慣れた位置におれはひとりで座っている。エビシンジョを食し、栗焼酎を飲む。馥郁たる組み合わせである、とは思うが、悲しくなった。やはり僕はさびしいのだった。僕? いや、おれ。

「種をまく人って絵があるけどよお」隣の席のおっさん二人の会話が耳に入ってきた。男は種をまくだけの人なんだ。それしかできねえ。しょせんそれだけの存在なんだ。でもよお、俺はわけえ子がいいな。ロリコンだ犯罪だなんだと言うけどよ、何歳だって対象になるのが男の特権みたいなところあるだろ? あるんだよ。源氏物語もそうだったろ。いや、男の本質の裏返しっていうか、あれは作者女だって言うしな。とにかく孫がいたってよ、孫の同級生くらいの女とだってやれるってのが、いや、少なくともやる気概があるってのが、俺らの生きる意味みたいなことなんじゃねえか? あ、すいませーん、ぬる燗お代わり。ところでおめえ奥さん出てったって? よかったじゃねえか。今日は久々にソープにでも足を伸ばすか。それともマッサージにするか。今日、ミミちゃんいるかなあ……

 おれは席を立ち、会計に向かう。

「毎度っ、どうもっ」威勢良く言われたのが気恥ずかしくて、「ごちそうさま」と小さく言って外に出た。「ありがとうございます」という言葉が後頭部と背中に貼りついて、なかなか消えなかった。

 駅まで歩き、改札の前で立ち尽くした。さっきのおっさんの言うとおりだとしたら、男ってのは、とてもとても哀しい生き物じゃないか。それってば、特権じゃなくて、呪いじゃないか。

 十分ほどそこに立ち尽くし、おれはいったい何を待っているんだろう? と思った。その瞬間に答えが出た。おれは彼女を待っているのだった。何と、女々しい。何と、未練たらしい。あの部屋にまだ住んでいるとは限らないのに。ああ、こんなことになるなら、彼女の携帯番号を消したりしなければよかった。アルコールの影響下にある精神の中で、不安と後悔が手をつないで不吉なダンスを踊っていた。ぐるぐるぐるぐる踊っていた。

 それでも帰りたくはなかった。どうすればいいのだろうか。財布の中をのぞくと二万円と少しあって、この二万円を使って何ができるだろうか、と考えた。麻雀の配牌を眺める時のように、最高形を考えてみた。

 ……痛みのない死、と思いつく。彼女に会わせてくれ、でなければ殺してくれ。わかってる。おれのプランにはその先がない。具体性がない。つまり、建設的ではない。そんなプランでは何も達成できない。暗刻のない、ましてやトイツのないところから四暗刻を達成するのは至難のわざだし、一九字牌のないところから国士無双を狙うわけにはいかないのだ。

 しかしおれは何を考えているのだろう。

 おれという人間は何なんだ? おれの今までの人生はいったい何だったんだ?

 でもね、完璧な人間、もしそのような人間がいるならば、それはおれなんじゃないか、とか思ったりもするんだ。なぜならおれは唯一無二のおれだから。おれはおれ以外の人間には一瞬たりともなれない。だから人間というのは、おれにとっておれ以外ではありえない。おれは完璧なおれなのだ。 

 生まれた時のことを思い出そうとしたが、三歳くらいの壁にはばまれて、不可能だった。ハイハイしている映像なんて出てきやしない。

 しかしおれは本当にいったい何を考えているのだろう。思考とはしばしば不条理に飛ぶものだとしても、今のおれは少しおかしい。わかっていながら思考を止めることができない。

 おれは歩き始め、脂っこいことだけが自慢のラーメン屋に入ってラーメンを食らった。一心不乱に食らった。豚の背脂が纏綿とからまったもやしを、ニラを、叉焼を、ネギを、太い縮れ麺を食らった。お腹が一杯になった。

 外に出ると、上空に半円形の月が浮かんでいた。いや、さっきからずっとあったはずだ。だから月の存在に気づいた、と言うべきか。世の中のすべての現象は、誰かの認識によって初めて照らし出される。認識とはスポットライトのようなものなのだ。そう、ちょうどあのお月様のように。お月様をおれの認識が照らし、お月様がおれの狭い肩幅を照らす。そんな哲学的な相補関係に、少しだけ自己満足を得る。

 ラーメンは小銭で払ったから、まだ二万円ある。何に使おうか。いや、つうか、何でお金を使うことばかり考えているのだろう。レスポンスが欲しいからだ。今宵のお月様だけじゃ光が足りないからだ。

 もういやだ。おれがおれでいることがいやだった。そもそも彼女をフッタのはおれなのに、何でおれがこんなに苦しまなければならない? フッタからだ。そうだ。でもフッテなくても早晩彼女はおれを見限っただろう。おれはそういう男なのだ。男は種をまくだけの人なんだ、さっきのおっさんはそう言った。でもそれだけじゃないだろう。恋愛はそれだけじゃないはずだ。土中に種をまくだけの行為じゃないはずだ。愛し愛されて恋愛は成り立っているのだから。でも、本当にそうだろうか? 彼女は本当におれのことが好きだったのだろうか? たしかに別れようと言ったおれに、彼女は顔を真っ赤にしてイヤだ、と言った。挙げ句、もういいよ、バカ、とヒステリックに怒り、どこかに走り去った。別れた数日後に電話で喋ったのが、最後の会話だ。

「元気?」とおれは聞いた。

「元気だよ」と彼女は答えた。

 おれはそれで怖気づいてしまって、適当な話をして電話を切ってメモリーから彼女の名前を消去したのだった。

 彼女に会いたい。どうしても会いたい。でも、会って、それでどうする? どうしようもない。今さら元の関係になんてなれっこない。わかっているのにダメなのだ。会いたい、という気持ちだけがドッペルゲンガーのように一人歩きしてしまっているのだ。断ち切りたい。断ち切りたいが、おれとこのみすぼらしいおれの分身は、凶悪犯を牢獄につなぐ鎖のようなもので結ばれている。断ち切ることなんてできそうもない。しかし理性に阻まれて同化することもできない。いったいどうすればいい?

 横を見ると、花が咲いていた。おれはこの先、ずっと、一生、花を見るたびに悲しくなるんだろうな、と思った。自業自得ってやつだ。ただ、花は種をまかなければ咲かない。そう思うと少しだけ気が紛れた。上空では半円形の夜の月が、西に向かって少しだけ移動していた。目線を戻すと、通りの向こうから見覚えのある女性がこっちに向かって歩いてくるのが見えた。
 

 深呼吸をする必要があった。確かにあれは彼女だった。認めよう。あれは彼女だ。そして、隣に誰かがいる。……男だった。

 考えられるパターンは幾つかあった。隣の男は友だちである。または親戚である。道を聞かれて教えている最中である。しかしどう見ても親しい距離感である。彼氏である、というのが一番妥当な答えのような気がする。今おれの胸のうちに渦巻いているのは、嫉妬と安堵が入り混じった複雑な感情だった。

 いや、あれはおれなんじゃないか、という考えが頭を占有する。あの男はどこかで切り離したおれの一部で、もしくはおれが切り離されたあいつの一部で、どちらにしてもあれはおれなんじゃないか? その瞬間、鎖がバラバラと解けていった。男は種をまくだけの人である。おっさんの言葉が真言であるならば、男は花を独り占めすることなどできないのだ。

 ……それでよくね? 道端に咲く花を見ながらそう思った。注意して見てみれば、花は人間の生活圏内の至るところで咲いている。そしてこれだってあたりまえのことなんだろうけど、花の数だけ種があるのだ。風に運ばれ、鳥に運ばれ、人の手に運ばれて。花は独り占めできない。それは新しい認識だった。西に移動を続ける半円形の月の下で新しい認識がおれを照らしていた。花は独り占めできない。

 ふたりがぐんぐん近づいてくる。彼女はおれに気付かないだろう。強い確信があった。
 おれは顔を上げ、まっすぐ駅の方に向かって歩き出した。彼女とすれ違う瞬間、花の香りが一瞬鼻腔をくすぐって消えた。





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花が咲いていた、について