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どこかで拾った松ぼっくり


花に嵐のたとえもあるさ
さよならだけが人生だ


井伏鱒二「詩集」から

まえがきみたいなもの 

街の性感帯 

1、上野公園

2、卒業式 
あとがきみたいなもの


卒業式の記憶がほとんどない。幼稚園、小学校、中学校、高校、と4回はその儀式に参加しているはずなのに、思い出すことが何もない。

これはどういうことなのだろう?
たぶん、何も卒業していないのだ。小さい頃不安だったことは、今もぼくを悩ますし、小さい頃憧れたものは、今でも胸をじくじく焦がす。

が、決定的に違うことがある。ぼくはどこかの地点で、人生というものを限定してしまった。そのおかげで、効率が上がった(気がする)。傷つくことも減った(気がする)。興味の幅はどんどん狭くなる。そしてその幅が狭まるたびに、肉体は老いていく。もとより、無限の可能性があったわけではない。親がいて、環境があって、言語があって、文化があって、常識があって、法律があって、その範囲で物事を選択しなければいけなかった。それでも、可能性を狭める前の自分がまぶしく映る。

     ΦΦΦ

記憶は失われる。人間が過去を思い出すとき、そこには「現在との比較」という実際の過去には存在しえない「テーマ」が入り込んでいる。その時点で記憶は捏造されている。十代の自分が今より輝いていたような気になる。でもそれは、ほとんどが錯覚である。過去には過去の苦しみがあり、悩みがあり、今と同じように生きていた。それだけである。ないものねだりをしてもしょうがない。過去は過去の自分のためのものではない。すべては今の自分のためにある。過去も、未来も、今のためにある。ぼくはそう思っている。

明日も短篇をアップします。

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