どこかで拾った松ぼっくり
花に嵐のたとえもあるさ
さよならだけが人生だ
井伏鱒二「詩集」から
まえがきみたいなもの
街の性感帯
1、上野公園
2、卒業式
数年振りに父と喧嘩をしたのは高校三年生の二月のことだった。殴られ、掴まれ、説教された。うっせえだまれ。僕は父の手を握り返して力を込めた。嫌な感覚があった。このままでは父を倒してしまう、という気づきだった。父はいくつだろう? よくわからないが、四十五歳は超えているだろう。いつの間にか、僕は体力で父を超えてしまったのだった。たぶん、寂しかったのだと思う。けれど僕は自意識の発達してしまったガキだった。そんなことを口にできるはずがない。僕は父の手を離し、無言で部屋を出た。父は追って来なかった。
その日、僕は学校の近くを流れる川の土手に寝そべって、水が上流から下流に流れていくのを見続けた。空はおびただしい種類の灰色で塗りたくられ、おそろしく寒かった。寒かったが、僕はその場に座り続けた。川が流れているのか、それとも僕が横滑りしているのか、アホらしくなって立ち上がる。遠くにタバコを吸いながら談笑する下級生の姿があった。ポケットから携帯を取って彼女に電話をかけ、大学を抜けてもらった。彼女の部屋に向かう。玄関に入った瞬間から彼女の肉体を求めた。冷蔵庫と電子レンジの前で服を脱がせ、キッチンのフローリングの上で身体を舐め合った。僕にとって唯一無二の切実な行為だったけど、癒しとか赦しとか救いみたいなものがあるわけではなかった。歯も唾液も胃も腸も消化液も何もない生物が必死にモノを咀嚼するみたいな感じだ。吸収できるわけがない。排泄物すら存在しない。使われたエネルギーが戻ってくることもない。
「私、大学戻るね」化粧を直しながら彼女は言った。
「うん」
「ご飯、どうする?」
「今はいいや」
「わかった。じゃあ、授業終わったら作るから一緒に食べよう」
「うん」
彼女はドアを静かに閉めて、出ていった。セックスの後の倦怠が、さっきの雲の色みたいに脳裏にこびりついていた。僕は布団を頭まで被り、目を閉じた。
彼女に出会ったのは、ひとつ前の季節、つまり秋のことで、高校の近くの公園で授業をサボる先客としてタバコを吸っていたのが彼女だった。彼女はジョーカーという、甘い香りのする黒くて長細いタバコを吸っていて、僕はライターを借りたのだった。
「すげえタバコ吸ってるんですね」と言った。
鮮やかな青い差し色の入った白いロングスカートに、襟に特徴のあるジーンズ生地のジャケットを羽織り、薄茶色のハットを目深にかぶっていた彼女は、「何か強そうでしょ」と言った。
「身体に悪そうだけど?」
「だってほとんどふかしてるだけだから」
「そっか」
「学校をサボってるの?」
「サボってるわけじゃない」と答える。「することがないだけ」
「私と一緒だね」と彼女は言う。
「大学生?」
「そう」
「授業は?」
「私、年パス持ってるから」
「ディズニーランドみたいに?」
「そう」
彼女はマユという名前で、すぐそばにある大学に通う大学生で、僕のひとつ年上で、最寄駅の近くで一人暮らしをしていた。すぐに仲良くなった僕たちは、授業がつまらないといっては学校を抜け出して、タバコを吸いながら他愛もないことを喋った。僕はいつも学ランだったし、彼女はいつも目立つ格好をしていた。
何回目かのタバコミーティング中、どこか違う場所行かない? と言うと、うち来る? と彼女は言った。彼女は料理が上手で、お腹が空いた、と言うと、美味しいスパゲティをつくってくれた。僕がパスタと言うと、パスタって麺類って意味だから、あんまり言わないほうがいいよ。バカだと思われるから、と彼女は言った。
「言うねえ」と僕は言った。
「言うよ。でも、美味しいって言ってくれてありがとう。自分のために作る料理ってつまんないから」
「そんなこと言ったら、おれ毎日食べにくるよ?」
「あなたは年パス持ってないんだから、高校に行きなさい」
「じゃあディズニーランド行ってつくっとくわ」
「一緒にディズニー行く?」
「おれあんま好きじゃないからいい」
「ちっ」
着地点の見えない会話ばかりしていたけれど、誰かといて心がミシミシしないのは久しぶりのことだった。彼女の部屋には音楽を聴く機械が何もなく、それも何だか心地良かった。「音楽はね、そのときの気分に定着しちゃうでしょ。だからあんまり聴かないんだ」というのが彼女の言い分だった。代わりに僕たちは映画をたくさん見た。お酒の飲めない彼女の横でビールを飲みながら。
「でもさあ、映画には音楽いっぱい出てくるよね」
「あれは音楽というよりは映画の一部でしょ? 独立してないからいいの。映像が音を吸収しちゃうから。架空の世界だしね。現実と音がリンクするのが嫌なの。それに、映画もひとりだと見ないし」そんな彼女の言葉に僕はいつも発情するのだった。
クリスマスには二人で大人の振りをしに行った。骨董通りにあるリストランテ。以前二人で青山界隈を散歩した時に見つけた店だった。料理を食べるのに自分で予約をしたのは生まれて初めてで、緊張していた。料理を味わうどころじゃなかったけど、スプマンテは美味しかった。早く緊張を解きたかったからかもしれない。僕たちは今できる一番の背伸びに満足し、彼女の部屋に戻った。彼女はあの店だったらお酒飲めるなあ、と珍しく気分よく酔っていて、僕は嬉しかった。
冬休みはずっと一緒にいた。僕にとって初めての同棲生活だった。何年か振りの大雪が降って、ベランダで一緒に雪だるまをつくった。レンタルビデオ屋とスーパー以外、ほとんど部屋の外に出なかった。……何回したんだ?
そんなこれまでのあれこれを思い出しながら、ベッドの上をゴロゴロと転がって、ひとり彼女を待った。十六時過ぎに彼女が帰って来て、ご飯をつくってくれた。僕たちはご飯を食べ、食器を洗い、それからセックスをした。
帰り支度をしていると、彼女は僕を抱きしめて、「今までありがとう」と言った。
「え?」
「私、ここ出て行くんだ」
「どこに?」
「留学するの」
「どこに?」
「ニューヨーク」
「でもずっと向こうに行ってるわけじゃないでしょ?」
「そうだけど」
僕は目をパチパチと瞬き、彼女が何を言っているのかを真剣に考えた。
「……」
言葉が出てこなかった。空気が薄くなってしまったのだろうか。呼吸が苦しかった。
ややあって、「私、その留学が終わったら結婚しないといけないの」と彼女は言った。
「そう、なんだ」僕は何とか声を絞り出した。
「ごめんなさい」
どこまでが本当のことで、どこからが嘘なのかはわからなかった。でも、僕はそれ以上そのことを考えることはできなくて、そのおそろしく冷たい疑念を振り払ってタバコを吸った。タバコは苦いだけで、どうしてこんなに苦い味がするものを僕は吸っているのだろうか、としばらく考えてしまった。
「荷物たくさんだね」と彼女は言う。「宅急便で送ろうか?」
「いや、持って帰るよ」
彼女の部屋に置いてあった私物をまとめてみると結構な分量になった。といってもほとんどが服で、僕は学校バッグにそれを押し込んだ。押し込めない分は、プラダの大きな紙袋をもらってそれに入れた。ぶくぶくに膨れた学校バッグを持ったまま、最後のキスをした。彼女の唇は冷たくて、胸が苦しくなった。
「ごめんね」と彼女は言った。
「いや」僕は首を振った。
僕は猥雑とした駅前の通りを何となしに歩いた。学ランを脱いでクリスマスに着たジャケットを羽織り、じゃかじゃかと音の漏れるパチンコ屋に入って、ハナビというパチスロの台に座った。コインサンドに千円を入れた。適当にコインを使っていると、何ゲーム目かで「たまや~」というランプが光り、隣に座っていたおじさんが、「入ったよ」と教えてくれた。「押してやるよ」ねじりはちまきをした赤い七が揃った。ジャラジャラとコインが出てくる。そういうことね、と納得し、十一時近くまで打っていると四万勝った。何だ、目押しって誰でもできるんだ、と思った。言うまでもないが、目押しは簡単でも、ギャンブルに勝つことは簡単ではない。そのお金はすぐに同じギャンブルで消える。この場合の運と不運は同じようなものなのだ。帰り際、僕はプラダの紙袋をパチンコ屋のゴミ箱に捨てた。
翌日、久しぶりに学校に行った。つかつかと担任がやって来て、小さな声で振り絞るように、補修を受けなさい、と言った。「それで、卒業はできるから」
実は単位が足りていなかった。まったく計算していなかったし、学校を辞めても別にかまわなかった。というかすべてがどうでもよかった。けれど学校側には留年者は極力出さないという暗黙のルールがあるらしく、留年が決まりそうな人間には言外に退学を促しているのだという。要するに、僕は恵まれていたのだった。その日の放課後、再び担任に呼ばれた。担任は以前僕が提出した進路希望表を僕の前に提示して、それからお茶をすすった。そこに書かれていたのはこんなことだった。
第一希望「駐車場」
第二希望「空き地(或いは空白)」
第三希望「駐輪場(空きあり升)」
これ、おれが書いたのか? そういやそんなこと書いたかな、という程度にも覚えていなかった。担任は、真面目な顔を崩すことなく口を開いた。これは、君のご両親が土地を持っていて、それを経営するということでいいのだろ……僕は立ち上がり、「うっせえ」バタン、と外に出た。
それでも僕は担任の言いつけに従い、三年生の誰もいない学校に二週間ほど通った。僕ひとりのために補修をしてくれているのだ。担任の気持ちは伝わっていた。卒業式の前日まで学校に通い、何とか卒業を許された。
卒業式当日、桜はまだ咲いていなかったし、春という言葉の中にある鮮やかで暖かなイメージはどこにも存在しなかった。暗く、寒いだけの一日だった。
僕は高校の中に思い出が一個もなかった。にもかかわらず、泣いている同級生が何人もいて、頭の中がノイズで満たされ吐きそうになった。体調が悪いと言って、式を抜け出した。僕には集団儀式なんかいらない。卒業証書もいらない。
僕はがらんとした教室の窓際の自分の席で、机に肘をついて学生生活最後の光景を眺めていた。雨が今にも降り出しそうだった。大切な姫君を守る騎士のように、雲が必死で雨を抑えているみたいに見えた。だけど僕は知っている。雲自身が雨を降らす原因であることを。僕はマルメンライトを学ランの胸ポケットから取り出して、100円ライターで火をつけた。
ふう、と煙を吐く。
煙が教室の中を拡散的に広がっていく。とうとう騎士の結界は崩れ、雨が降り出した。雨粒が、外の世界のあらゆるところに落ちていく。
僕は色の変わり始めた駐車場に向かって、タバコを放り投げた。
火のついたタバコはアスファルトを転がり、雨にうたれて消えていく。もう、永遠に火がつくこともない。
この日、僕は高校を卒業した。
原稿用紙換算枚数14枚
あとがきみたいなもの