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文章の匠と言って思いつくのは谷崎潤一郎。谷崎の文章読本は、日本語で書かれた文章読本の最高傑作ではないか?


天才性で言えば三島由紀夫。が、人工的な三島の文章に好みは別れる。
 
心地よいといえば川上弘美、歌うように吐き出すのは町田康、無数の模倣者を産んだ村上春樹、すぐに喧嘩を売る坂口安吾、寿の憧れ長谷川四郎。が、必ずしも、文章のうまいへたが小説にとって武器になるわけではない。デビュー作のみで断じるのはあれだけど、山田悠介のように児戯的な文章を書く作家もいる。KAGEROUのごときスキャンダルもある。you know,
 

 八月のある日、男が一人、行方不明になった。休暇を利用して、汽車で半日ばかりの海岸に出掛けたきり、消息をたってしまったのだ。捜索願も、新聞広告も、すべて無駄におわった。
 むろん、人間の失踪《しっそう》は、それほど珍しいことではない。統計のうえでも、年間数百件からの失踪届が出されているという。しかも、発見される率は、意外にすくないのだ。殺人や事故であれば、はっきりとした証拠が残ってくれるし、誘拐のような場合でも、関係者には、一応その動機が明示されるものである。しかし、そのどちらにも属さないとなると、失踪は、ひどく手掛りのつかみにくいものになってしまうのだ。仮に、それを純粋な逃亡と呼ぶとすれば、多くの失踪が、どうやらその純粋な逃亡のケースに該当しているらしいのである。


安部公房の「砂の女」の書き出しである。

生きていたらノーベル文学賞を取ったであろうと称えられる大作家の文章をあれこれ言うのは気が引けるが、安部公房の文章は、同時代の他の作家に比べると異様に可愛い。

発見される率、とか可愛い。ともあれ、この書き出しから、安部公房は「砂の女」というマジキチビューティに囚われる男の話をはじめるわけだ。安部公房の小説には、現実空間のひずみから超現実が発生するというようなドライブ感がある。それはこの可愛いとさえ感じてしまう平板な文体ありきなのである。

たとえば、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」は、薬物の痕跡がほの見える。

たとえば、スティーブンソンの書いた「ジキル博士とハイド氏」という小説は、ラリった状態で3日で書き上げて、その後文章をすべて破棄し、また書き上げた、という逸話が残っている(真偽不明)。

人の数だけ文体はあるが、文章とはつまり移動手段である。「変身」や「飛翔」が文学的テーマになりやすいのは当然なのだ。それに、非合法の薬物摂取するのは犯罪だが、文章は合法。どこまで遠くに運べるか。文章の真の価値はそこにある。

俺の文体? やっぱ速いのがいいな。ポルシェ911ターボ? パガーニ・ゾンダ? ブガッティ・ベイロン? いや、ジェット機? イオンロケット? 速度がなければ距離が稼げないのは事実。しかし何事にも程度というものがある。乗り物酔いをしてしまっては元も子もないのだ。遠くまで行ける性能は有しつつ、ちょうどよいテンポ、心地よいリズム。欲を言えば時間、空間(次元)移動も自由自在な特別製。それでいて、「おまえ酔うとんか?」という文章がいい。

そのためには酔ってはいけない。自分の文章に酔ってはいけないし、自分の感覚に酔ってもいけない。朝目覚め、冷めた目で、醒めた頭でイカレタ文章を書きつづりたい。

明後日から小説の連載をはじめる。どんな乗り物になるだろう? どこまで飛べるだろう?
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