フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ 永井均訳
「パチ屋のなくなった世界で」
第四章
消えゆく僕の世界で僕は The world will be lost for change the world.
本作はフィクションであり、実際の人物、団体、事件などとは一切関係ありません。
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目隠しが取れたときに広がっていた光景を、どんなに記憶力が悪くなっても忘れないだろう、と僕は思った。
おそらくは僕の肩を押さえていたであろう二人が床に倒れていた。彼らは動かなかった。そして前方に、もうひとり男が倒れていた。ぴくぴくと痙攣する彼に向かって梅崎さんが言った。
「高崎さん。おれはおれの道を行きます。今までお世話になりました」
「待て」高崎と呼ばれた男が言った。「おまえ、こんなことしてどうなるかわかってんのか?」
「わかってます」と梅崎さんは言った。「あ、言い忘れましたが、彼が松太郎の元相棒です。今後、彼に手を出すようなことがあれば、おれもマツも許しませんから」
そう言った後、梅崎さんは僕の左肩を引っ張るように持ち上げた。強烈な痛みとともに、肩がはまった感触があった。さらに梅崎さんは、僕の左の太腿に刺さっていたアイスピックを抜き、自らの着ていたシャツをびりびりと破り、左足と左手を止血してくれた。そして僕をおぶって歩き出した。振動のたびに太腿と左手が痛んだ。部屋を出ると廊下があり、そこにもふたりの男が倒れていた。僕は梅崎さんにおぶられながら、彼らの体の上を通過した。
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気がつくと、僕は寝台のようなところに寝かされていた。
「小指も折れとるけど、裂傷でギブスがはめれんかったから、添え木でしばらく様子を見といてんか」と誰かが言った。「肩もしばらく痛むやろうけど、しっかりはまっとうから大丈夫や。太腿の傷も、安静にしとけば問題ない。災難やったな」
誰かはわからないが、「すいません」と言った。
「師匠、すいませんでした」と梅崎さんが言った。
「梅崎さん」と僕は言った。「タローズさぼっちゃいました。やっぱ、俺、団体行動向いてないみたいです」そう言うと、僕の意識は再び薄れていった。
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どうして、朝と夜の間、夕方を逢魔ヶ時というか。
どうして、その時間に外に出てはいけないのか。
どうして、部屋と部屋の中間、敷居を踏んではいけないか。
どうして、畳と畳の間、縁を踏んではいけないか。
「その理由を知ってるかい?」と誰かが言った。
僕は首を振った。
それは、どちらでもない領域だからだよ。境界をまたいではいけないんだ。
鳥類なのか? 哺乳類なのか? コウモリが恐れられる理由も同じだ(コウモリはれっきとした哺乳類だけどね)。
曖昧なもの、どちらともつかないもの、人間が忌避するもの。スロッターくん、君もそのひとりだ。
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「りんぼさんですか?」と僕は言った。「ここはどこですか?」
目の前にいたのは佐和だった。
「何で?」と僕は言った。
「元気?」と佐和は言った。
「普通」と僕は言った。普通、というのは彼女の口癖だった。名前は忘れてしまったが、ローソンだかセブンだかファミマのどれかにしか売っていない何とかというグミが好きで、毎日のように彼女は買ってきた。そんなに美味いの? 僕がそう言うと、彼女は「普通」と言った。普通? セックスのときもそうだった。きもちいい? 彼女は耳元で言う。僕は素直にうなずく。同じ質問を返す。彼女はほとんど決まって「普通」と言うのだった。
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僕の通っていた高校から歩いていける距離に、わりと有名なお嬢様大学があって、そこにサセさんと呼ばれる女子大生がいた。本当に通っていたかどうかは不明ながら、デートすれば必ずやれる。だから彼女が歩くと列ができるのだと、同級生は得意げに語っていた。
三木という、高校創立以来、最もマージャンが弱いんじゃないか、という、当時の僕にとってパチ屋の交換所的な同級生がいた。彼はたまっていたツケを返す代わりに「ちょっとつきあってほしいところがあるんだけど」と言った(実際それはおかしな提案ではあるのだが、目をつむった)。そして連れて行かれた居酒屋で、僕らより先に席に座っていたのがサセさんだった。三木は童貞で、彼の中で、その日は卒業記念日という風に位置づけているらしかった。
こう言っては何だけど、客観的に見てもサセさんは可愛かった。高校生にはない風格のようなものがあったし、何より、親元で生活しては出てこない思いやりみたいなものが感じられた。
「はじめまして」からはじまって、僕たちは杯を重ねた。
舞い上がった三木は、誰にも振られてないのになぜかひとりで一気をくりかえした。一気、一気、一気、と言いながらグラスを空ける彼は、とても幸せそうだった。当然の帰結として、彼はトイレにこもってしまった。そしてトイレから出てきた彼は、そのまま眠り込んでしまった。
「三木くん、寝ちゃったね」サセさんはそう言って、細長いタバコに火をつけ、ふう、と吐いた。「この後どうしよっか?」
僕は当時から、期待値の有無で物事を捉えていたため、都市伝説的なことはまったく信じていなかったし(奇しくも、その年は、某フランス人の大予言でジンルイが滅亡するとされた年だった)、オカルトや怖い話や自分にとって都合の良い話を信じるようなことはありえなかった。僕は彼女のその献身の理由が何となくわかった。どういうことか? 男の望む純粋なサセさんなんてどこにもいないということだ。
「●●さん」と僕は言った(彼女の名前がどうしても思い出せない。さすがにサセさんとは呼んでいなかった、と思う)。
「ん?」サセさんは多くの男性が望むような角度で首をかしげた。
「どうして●●さんはそんなにきれいなのに、わざわざ阿呆な高校生なんかと遊ぼうとするの? 病気なの?」
「何でそう思うの?」サセさんはマジメな顔で言った。
「だって、合コンとかいくらでもあるでしょ。街歩いてたらナンパされるでしょ。何でガキが好きなの? 楽だから?」
その途端、サセさんは泣き出したのだった。
「ごめん」と僕は言った。
「ううん」サセさんは目に涙を浮かべたまま首を振った。「そんなストレートに本質をつかれたの初めてで、びっくりしちゃって」
「本質?」あんまり高校生は使わない言葉だな、と思いながら僕は聞いた。
「そう。私、病気なの」
子宮何とか症という病気で、セックスができない。サセさんはそんなことを言った。セックスはできないけど、それ以外のことは大抵できる。大人の男はそのことを嫌がる人もいるけれど、高校生は奉仕に対し、純粋に喜んでくれることが多い。だから私は君たちと遊びたい、ということらしかった。
「あっちでするってこと?」僕は単刀直入に言った。
「……そういうこともあるね」とサセさんは言った。「山村くんってあれでしょ。ドSでしょ」
僕は首を振った。「それは●●さんの理想の投影でしょ? 俺は別にSでもMでもない。別に、普通だよ」
「普通か。私の普通とは全然違うね。君、恵まれてるよ」
「そうかもね」と僕は言った。「俺にとっての普通と、●●さんにとっての普通は違う。たぶん、こいつ(三木)にとっての普通と、俺にとっての普通も」
普通……。普通って俺の口癖だったのか?
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気づくと僕はバスケットボールをしていた。どういうわけか、バスケ部2年対他校の試合だった。山口がボールを運び、ゴール前の竹中にボールを送る。竹中はフェイクを入れてブロックにつく相手を交わし、パスを送る。どフリーの僕はボールを受け取り、3ポイントラインぎりぎりから飛び上がり、最高到達点で手首を返す。飛び上がった僕の足が地面に着いた数瞬後、ボールはゴールに吸い込まれた。
「すげーじゃん」満面の笑みで竹中が言った。「ナイッシュ」山口が僕の肩を叩いた。
僕は首を振った。「普通だよ」
つづく
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