自分の書いたすろっと小説を読んでいて強く思ったことは、スロッターの幼稚性である。

師匠はパチンコ屋での身の振る舞いに関しては、すべて自分の管理下にある。どんな事態が起きても困らないように、判断基準をロジック(論理または自分ルール)でガチガチに固めている。たとえば期待値稼働をする際にどの台から打ち始めて、どのような順序で行動するのか。設定狙いの際の台の選び方、あるいは店の下見方法、データの見方、店員、同業者との距離の取り方まで。

が、それらはパチ屋以外で役に立つロジック、あるいはスキルとはいえない。なぜか? 人間は、機械ほど単純にできていないからだ。人間には感情があり、また、理不尽なバイオリズムがある。つまり、人間同士のコミュニケーションにおいて、そのスキルはほとんど役に立たない。

師匠は30代前半の男性である。が、いわゆる多感な時期をすっ飛ばしてパチ屋に入り浸ってしまったため、他者との関わり方が不得手である。そのツケが今になってきている。困ってる他者を見たときに、どうすればいいかさっぱりわからなかったり、人間が集まったときに(往々にして)起こり得る「主義主張」が食い違った際の、自分の立ち居地づくりの方法もわからない。それでもパチ屋で培った経験、あるいは経験知で、迫り来るできごとに対し、ひとつひとつ対処していく、というのが前作「トン、トン、トン」という作品だった。

ぼくがこの小説の中で特に興味をそそられるのは、山村崇、通称師匠と、田所りんぼ、通称りんぼさんとの会話である。師匠は自分の言葉で話そうとする。というか、徹頭徹尾、経験知を語ろうとする。が、りんぼさんは違う。自分のことは一切語らず、歴史を語る。

以下はドイツ帝国、初代帝国宰相オットー・フォン・ビスマルクが語ったとされる言葉である。

「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」

物語の終盤、ふたりが水道橋のジャズの流れるカフェで対峙するシーンがある。

「……そんな話は聞きたくありません。今、俺のポケットにはナイフが入っています。10秒もあれば、あなたの命を奪うことができます」
「スロッターに筋肉はいらないって豪語してた君がかい?」そう言ってりんぼさんは笑った。「ブラフは相手を選んで使うべきだ。というか、僕にはさっぱりわからないのだけど、どうして君はそんな顔で僕をにらむのかな」
「そういわれてみると、俺にもよくわかりません。俺にもこの気持ちに論理的整合性があるとは思えない。でも、なぜか嫌悪感がある。許せないという気持ちがある」

「トン、トン、トン」第37話より

師匠が口にしたのは、駄々っ子のような、あるいは幼児のような、快不快原則による嫌悪感である。
不快に耐えられない非社会的傾向、己の経験に頼るしかない非社会的傾向。幼稚性、とぼくが冒頭で書いたのはそのことである。

これらはすべて、自分自身に対する批判でもある。スロッターが幼い、というよりも、ぼくという人間が幼いのだ。
一言で言えば「青臭い」のだ。そう、この作品は作者の青臭さの投影なのだ。何度か自分の作品を読み返してみて、そのことがよくわかった。

その先に行かなければ行けない、と強く思う。幼稚でも、へたくそでも、人の心に届くものを書かなければ、と思う。


小説再開まで後1日。

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