我が名は寿、小説家である。読み方の決まりはない。苗字もない。伊賀方(朧)がいいか、甲賀方(弦之介)がいいか、悩んでいるくらい。よく打つスロットは「バジリスク~甲賀忍法帖~絆」
自己紹介といって、マイネームイズ寿、マイホビーイズ絆、で終わらせるつもりはない。初めてこのブログを見てくれた人のために、あるいは、どんな小説を書いてるんだぜ? という疑問を抱いてくれた人のために、具体的に語ってみるというブログ記事である。
具体的に語るということは、下腹部を丸出しするということに他ならないが、さすがにそれは忍びない。何か着るもの、着るもの……。そうそう、ぼくが書いている小説は、「純文学」ってなカテゴリーでございまして、ええ、エンターテイメントの対義語みたいなものである。が、こんな説明で腑に落ちる人はまずいない、まこと「ややこしい」小説でござる。にんにん。
「純文学小説」
それを説明するには読むしかなく、読んだところで「感動」もなければ「興奮」もない。「シカケ」もなければ「オチ」もない。「意味」はおろか「毒」「毒」「猛毒」の可能性すらある。それが純文学である。
が、何小説にしろ、何ブログにしろ、誰も読んでくれなければ、それはただの垂れ流し、排泄行為に過ぎない。毒の垂れ流しはテロである。そこでまずは、読んでもらえるものを目指したい。どうしよう? 何が必要なんだろう?
ということで、ぼくは純文学の中にある「ややこしさ」を「手の届きやすさ」に置換してみたいと思う。が、これだけではまだ足りない。何かシンボルが欲しい。ブランドにロゴがあるように、寿が書くものといえば、こういうものである、というシンボルが。
そこでぼくは、スロットを打つことを語ることにした。文学の言葉として、スロットを語ってみたいと思ったのだ。うまくいけば、ぼくは「錬金術師」になれるだろうし、失敗すれば、「敗残者」として、嘲笑の対象になるか、あるいは見向きもされないだろう。当ブログは、そんなぼくのスロットという媒介を通した文学である。えらそうに聞こえたら申し訳ない。初対面なのでカッコつけているだけだ。すぐにボロが出る。
佐渡島庸平というマンガ編集のプロが、ブランドの本質として、以下の言葉をあげている。
「気が遠くなるほど長く積み上げてきた『信用の蓄積』である」と。
気が遠くなるほど、という回数でもないが、ぼくはこのブログで、くりかえしくりかえし自分のことを語ってきた。
曰く、小説を書いている。
曰く、スロットを打っている。
曰く、酒にダラシナイ。
曰く、頭が悪い。
等々と。
「風立ちぬ」という宮崎駿の長篇映画の中で、主人公が(精神の)師匠にこんなことを言われる場面がある。
「創造的人生の持ち時間は10年だ。君の10年を力を尽くして生きなさい」
「風立ちぬ」が自分の物語になる条件
奇しくもこの生活に入る際、ぼくは10年という時間を設定していた。その時間はすべて、小説のために使おうと決めたのだった。
「では、ぼくのこの創造的生活において、スロットはどのような役割を果たしているのか?」
小説に向かう精神の均衡を図るためである。勝っていても、負けていても、変わらぬ気持ちで小説を書くこと、なんて真似はぼくにはできない。そんなことができるくらいなら、たぶん違う仕事に就いているだろう。そうではなく、日付や月や季節や睡眠や体調に左右されない継続性。すなわち、継続するトキ。今日負けたとしても、明日また同じことをくりかえすことのできる行為。稼働内容はすべて言語化できること、そのうえで長い目で見てマイナスにもならないこと。それがぼくにとってのスロットである。そこで得たすべては、小説のための生活の資本になる。いわば創造的人生の担保として、スロットがある。
10年間。そう、この生活は2018年6月17日に幕を閉じる。ぼくが小説家として世に出るのか、あるいは試みはすべて失敗し、再び一から社会復帰の道を探るのか。その勝負の行方を見届けて欲しい。
酔旅詩句(何これ? 今思いついた夜露死苦のオマージュ)。
書くこと、賭けること 寿