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コンビニでエロ本が立ち読みできた時代、当時の中高生は、こんな言葉に縛られていた。
「女の初めての平均年齢は14歳。男の初めての平均年齢は16歳。おまえら、急げ」
何の統計なのかもわからないし、だいたい何を急ぐんだよ? と思うが、みんな普通にあせっていた。高校生に上がると特に。

時はまさに世紀末。
クローズというマンガにたびたび登場するように、当時の中高生にとって、パチンコ屋に入るのは、ヤンキーカルチャーの一環だった。今では考えられないことだけど、当時、一般的な中高生は、コンビニでアイスを買うような感覚で、タバコを嗜んでいた。文化系の部活に属しているにせよ、体育会系の部活に属しているにせよ、帰宅部にせよ。そのカルチャーの延長線上に、ゲーセンがあった。パチンコ屋があった。なじみのパチンコ屋は、学生服で入れた。厳密に言えば、上着だけ脱ぎなさい、と言って入れてくれた。そのようにして、ぼくたちはパチンコ屋に入り浸った。 アミューズメント施設がすべて大手に塗り替えられる前の、隙間のような時代の、隙間のような空間だった。店からすれば、大人だろうが、子どもだろうが、同じ比率でお金が取れるのだ。ウェルカム以外の何ものでもない。時代は変わるものである。
おそらくは、人と違うことで目立ちたい、というのがヤンキーの始まりだった。でも、その頃の日本では、多数派に属する最短距離が、ヤンキーカルチャーに染まることだった。ヤンキー=硬派ではなかった。ヤンキー=悪いやつでもなかった。チャラいやつ、目立つやつ、カッコイイとされるやつ、彼らは多かれ少なかれ、ヤンキーカルチャーの扇動者だった。スーパー高校生とか、カリスマモデルとか言われてたやつは(男も女も)だいたい地元では悪い人で名が通っていた(妻夫木くんは違うと思うけど)。

ヤンキーカルチャーにもよしあしがあり、個人的に美点のひとつだと思うのが、「実力社会」であること。つまり、公平性が担保されている点。ただ、その社会では、一芸のない人間は、いいポジションを取ることができなかった。実力社会の弊害。ぼくは企画立案即実行タイプだったので何とかなった。

何しろぼくはひとりでいたくなかったのだ。そのくせ「集団行動は苦手だ」とかうそぶいていた(痛い、痛い、痛いって)。今から思えば、哀れである。誰かと一緒にいたいから、無茶なことを企画して、実行する。
「この焼酎を、ウォッカで割ります。飲み干します」とかw
同級生たちは、「ソレ、ワッテネー」と喜んでくれる。稀に見る阿呆である。
「タバコを5秒間吸い続けたらどうなるか?」とか。
答え。マジで気持ち悪くなる。危険なので絶対にしないでください。
「校門の前でタバコを吸ってると何と注意されるか?」とか。
答え。どうして君は上履きなんだ? と注意される。先生にはタバコは見えなかったのでしょう。
……今のユーチューバーみたいなことをやっていたんですね(大炎上ですわ)。ともあれ、パチンコ屋である。

佐藤(仮名)、という同級生がいた。これといった特徴のない、まったく目立たない人間だった。が、彼の伝説は、一日で築かれる。連れスロの最中、ニューパルで5000枚を出したのである。
その日の飯代と、コンビニの酒代は佐藤が出してくれた。
「サ、ト、ウ」「サ、ト、ウ」「サ、ト、ウ」というコールは鳴り止まなかった。佐藤THEヒーローの誕生だった。

ビーマックスが登場したとき、佐藤はいち早く実践し、当時の感覚からすれば(いや、今でもだな)大金を得て、「この機種甘いかも」とほくそ笑んでいた。彼は目押しも(飛びぬけて)うまかった。ハナビを打っていて、中リールをあえてチェリー・氷・チェリーの方を狙って氷を取得するような男だった(普通は氷つきの赤七を目押しする)。
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(参考画像)

「直視ができるようになれば、ビッグ絵柄を目押しするのも小役を目押しするのも一緒だよ」と佐藤は言った。
「サ、ト、ウ」「サ、ト、ウ」「サ、ト、ウ」というコールは鳴り止まなかった。

ネットに頼れない時代。あろうことか、佐藤はあの伝説の「ビーナスライン」を新装から打って、「これ、激甘」と言っていた。
当時のぼくはハナビ以外の機種にはさっぱり興味を持てなかったから、フン、花火師はハナビだけを打つのさ、と意固地になって毎日毎日ハナビばかりをしこしこ打っていた。正直に言います。今でも後悔してるw
というわけで、当時の高校生は、(パチンコorスロットのせいで)金を持ってるやつと、全然持ってないやつの差が著しい、超格差社会だった。

ぼくは?

ぼくの中高時代の最高獲得枚数は、何と、2000枚ちょいである(ハナビ)。当時は7枚交換が主流だったが、等価の店だったのが唯一の救いだった。たぶんトータルだとめっちゃ負けてたんだろうな。お年玉とか、それまでの貯金とかも、全部使ってしまった。ぼくの唯一の「よすが」だった「企画立案即実行」というアピールポイントが何の役にも立たないことを思い知った。

それにしても、佐藤。すごい男である。
最後に会ったのは、「ナイスデイワールド」というオリンピアの機種の新装に一緒に並んだときである。あれは1999年。たしか彼は大学生だった(いつ受験勉強してたんだろう?)。あのときもあいつは勝ってたような気がするな。ちっきしょう。

今でもぼくは、あの頃の劣等感を拭い去ることができない。でも、それがあるから今があるとも言える。あの頃と同じ気持ちで、というわけには(さすがに)いかないけれど、ぼくは今もスロットを楽しんでます。イエー。

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