IMG_0926

このブログはある種のセーフティネットを目指しています(あの阿呆は毎日更新してるのよね、という感じで)。というわけで、時々はアンチ期待値主義の文章を書かねばなりません。それはもちろん、心苦しい、わけじゃないです。だって期待値なんてめんどくせーじゃん、というわけでもないです。

1、ビジネス

2、心意気

どちらを柱に仕事をするか、という問題です。 

1、商人的であるか(金銭)

2、武士的であるか(名誉)

こういう言い換えも可能かもしれません。
江戸時代、ほとんど国内需要のみでありながら、経済成長が可能だったのは、平和による人口増加(生産量の増加)もさることながら、お金のプロがいて、消費の文化もあり、きちんとお金が回っていたから、という理由もあると思います。
「惚れ薬、何がよいかとイモリに聞けば、今じゃワシより佐渡が土」
という歌(都都逸)が残っているくらいですから(佐渡の土とは金のこと、イモリとは精力剤のこと)、金銭がものを言うのは今も昔も変わらないのでしょう。

日本人のエコノミックアニマル性を際立たせるのが、「お年玉」という風習でしょう。世界広しと言えど、年端もいかぬ子どもに現金を渡す風習のある国はそれほど多くないように思います。このデジタル時代にあっても「現金」が買い物の基本であること、そして、その現金の精緻さ、偽造しにくさは、教育の賜物であり、文化の連続性を示していると思います。

「お金」の特質として、一に、それを持ってさえいれば、人間性は問わないという平等性があります。100歳の持つ1000円と1歳の持つ1000円が等しい。この国に世界最大のギャンブル市場があるのも、この金銭感覚ゆえ、とぼくは思うのですが、どうでしょうか。

本題に戻ります。
金を目的とするならば、仕事量というのは、効率を重視しなければいけない。
最高形は、指先ひとつで、あるいは舌先ひとつで、~億、~十億、~百億、~千億、というものです。当然、スロットの期待値追いもそのヴァリエーションのひとつ。
しかしながら、名誉を目的とするならば、仕事量というのは、意味や価値に反さなければいけない。
最高形は、命の限りを尽くして死を迎える、ということ。何も残らなくてかまわない。
「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」

士農工商の「士」と「商」はかくも異なる価値観を持っていますが、ぼくのような「遊民」と「歌人」のキメラみたいな士農工商のカテゴリーから外れた人間は、第三の道を行きます。

「金銭」でも「名誉」でもなく、「作品」を残したい。

しかし経済観念に優れた日本人の感覚というのは恐ろしいもので、その「作品」あるいは「文章」に、どれくらいの元手がかかっているかがすぐにわかってしまう。でも、だからこそ、「今日はパチンコ屋に行ってスロットを打って3万負けてきたよ」というだけのことを文章にして、それ以上のものにすることも可能なはず。

そのためには、効率を重視した仕事量では話にならない、というお話。一冊しか本を読んでいない人が語る一冊の本と、一万冊の本を読んだ人が語る一冊の本は違う(よしあしではなく)。一冊の本を一回しか読んでいない人と十回読んだ人もまた違う(よしあしではなく)。スロットを打たないでスロットを語る人と、日々スロットを打ってスロットを語る人ではやはり違う。

効率化された文章なんて、クソクラエなのであります。

ブログランキング・にほんブログ村へ 


人気ブログランキングへ