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小説執筆の合間に気休めに書いていた文章をあげてみようのコーナー。

ちょっと前の話ですが、通称・つまようじ男氏という話題がありました。ライブドアニュース

すでに過去のトピックになっている感がありますが、これは実際けっこうな問題で、金こそすべての世の中で、誰もが近道を、抜け道を探している中で、「好きなことで、生きていく」とかってバシバシ煽られる現代社会において、「犯罪」こそが最短のルートではないか、と考えてしまう人、多そうっすよね。


彼は十九歳。この事件(罪状は住居侵入)で彼が裁かれたとしても、牢獄の中で長く閉じ込められることはまずない。彼が起こした「こと」と、彼が得た「もの」を、差し引きして残るものは何か。
おそらくは、同じような事件を起こそうとする第二、第三、第四のつまようじ氏だろうなあ……
とか思っていると、早速、模倣犯が捕まったというニュース。

これ、基本的な構造は、「黒子のバスケ脅迫事件」の無敵の人と酷似してますよね。嫌儲感情、自己顕示欲、嫉妬、それらがないまぜになってワヤクチャになって。テレビで見る限り、彼が意識していたのは、ユーチューバー「ヒカキン氏」でした。

「ヒカキンの時代は終わった。俺が日本一」と彼は言ったそうです。
「俺様は神様以上の存在だ」彼はそうも言ったそうです。

彼にとって神様というのが何を指しているのかわかりませんが、これ以上ない存在というのが神様のはずですから、ドラゴンボール式のインフレーションでもない限り、神様以上の存在は神様に決まってますし、その神様が人の子であるヒカキン氏を超えたいという願望を持つ。シュールリアリズム的に複雑な構造に頭がクラクラしてしまいますが、今議論すべきは、論理感なのかな、公衆道徳なのかな、ネットリテラシーなのかな。その前に親が教育できない時代なのかな。あんな形で有名になっても嬉しいのかな。そんなことをつらつら考えておるところですが、でも、作家は強く言えないんだよなあ。これが本音。うん。最終的な解決方法を、自害的なソリューションで清算しようという日本文学界にはびこってきたメンタリティは、これらの事件に似てるっちゃ似てるんですよね。死後、本が売れるって側面もあったりしますし、作家が書けなくなったらそれこそ人生真っ暗ですし。

凶悪犯罪の数は減っている。自殺者すら減っている。ならば社会は薔薇色か? と言うと、そうでもないわけで、どんな社会にも、一定数はおかしなことをする人が出てきてしまう。これはもう、世界中のどんな場所でもそうだし、しょうがないっちゃしょうがない。

結局、どこを足場にするかの問題なのだと思う。ぶっちゃけぼくはスロットを足場に考えている。めっさグラグラする足場だけど、でも、それでもそこにしがみつきたいと思う。
今という現実と、文章を書きたいとか何かを伝えたい、残したい、みたいに圧倒的に生活に邪魔な願望、ある種のファンタジーとのバランスを取るためには、グラグラの足場くらいが丁度いい。

みんなが目指すから芸人を目指す。みんなが目指すからアイドルを目指す。みんなが目指すからユーチューバーを目指す。みんなが目指すからブロガーを目指す。そういう自発的な願望に見せかけた、空気の呑まれ方では、初手から負けている(というか、出遅れている)。
そういう意味では、方法論としては、最短ルートとしての「犯罪」というのは理解できなくもない。ただ、その、ある種異常と思われる犯罪行為ですら、「希少性」はない。人類の歴史の中で、延々やられ続けていることだから。模倣犯のする模倣とは、生物の一番原始的な習性だから。

ソフトという言葉でも、コンテンツという言葉でも、作品という言葉でも、もちろん芸術でもいいのだけど、それら創作物による運動会に勝つポイントは、「希少性」以外にはありはしない。

では、「希少性」とは何か。
ギャンブルだったら一言で言える。「優位性」である。
ほな、コンテンツの優位性はいったいどこにあるんかというと、どこにあるんだろう?

……今ちょっと思ったのは論理。そう、「論理」である。

「これはペンですか?」
「はい。そうです」
という構文があったとする。が、実際問題この構文は、構文のための構文(構文を学ぶための構文)であって、現実的にはひとっつも役に立たないシロモノである。

「これはペンですか?」と疑問を発した人間をA、
「はい。そうです」と答えた人間をB、とする。
そもそもの話、Aはペンとは何かを知っている。でなければ、「これは何ですか?」という質問をするはず。ということは、Aはペンなど持っていない。つまり、冗談を言っている。あるいは、何かの問題があって、その質問しかできない体になっている。これがA氏にまつわるひとつの仮説である。
次にB氏。A氏が冗談を言っているにもかかわらず、B氏が「イエス」とうなずくということは、B氏はA氏の冗談に乗ってあげている、という仮説が立てられる。当然、A氏の質問の意図によって、B氏の受け答えが変わってくる。たとえば、B氏はA氏をだましているという説。あるいは何を聞いても「はい。そうです」しか言えない状態、つまり、病であるか、何者かに脅されている。そのような仮説も立てられる。

つまり、この構文は、一般的に思われている解釈とは別の解釈が成り立つのです。思考のつながり、すじみち、または法則。これが論理であります。

「Is this a pen?」
「Yes,it is.」

1、文法を学ぶために生み出された構文という解釈
2、A氏が狂人である(または冗談を言っている、あるいはB氏に喧嘩を売っている)という解釈
3、B氏が嘘つきである(または脅されているか、A氏をからかっている)という解釈

「これはペンですか?」
「はい。そうです」

というように、この構文は(意味的に多少の無理はありますが)、理解可能な範囲ではある。でも、たとえば、こんな構文だったらどうでしょうか?

「これはヌリエイリヂクイですか?」
「はぬ。そるですほ」

うん。たしかにオリジナリティはありますが、さっぱり意味がわかりません。ここでわかることは、言語で何かをする以上、オリジナル<ユニバーサルでなければいけない、ということ。つまり、独自的である前に普遍的、一般的でなければ伝わらない。そのうえで、「希少性」とは何か?

共感できるものの中で、理解可能な範囲の中で、一番意外性のあるもの、尖っているもの、面白そうなもの、そういうことだとぼくは思う。そしてそれは、模倣の一段上の世界にある。
結局、手っ取り早くできる模倣じゃなくて、独自の論理性を構築するしかないのですね。それがどんなにしんどくても。だからぼくはグラグラの足場の上にいます。平らな大地の上には人がいっぱいだから。


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