昔の話ですが、俳優を目指していた頃がありました。
当時はよくオーディションを受けていた。今のぼくも、小説を書いて、年に2~3作を文学賞に送っている。形は違えど、セレクトされる、という意味では変わらない。あんまり好きなイベントじゃないですねえ。
セレクション、オーディション、いったいどうやったら通るんですかね。今日はその方法論について、今のぼくの考えていることをまとめてみたいと思います。オーディションを通らない人間のオーディション論、反面教師的に冷めた目でご覧いただけると嬉しいです。
たまには需要のありそうな話題を書く。これが、ブロガーである(ドン)。
矛盾の塊こと寿
当時、ぼくが受けていた(受けさせられていた)のは、役者としてよりも、むしろバラエティのほうが多かった。これはテレビ欄を見ていただけるとわかるとおり、バラエティ番組のほうが数が多いからで、つまり、需要と供給の問題であります。
ともあれ、ドラマにしろ、バラエティにしろ、どんな番組にも筋書きが用意されています(筋書きのない筋書きというのも含めて)。そして筋書き、脚本というのは、いくつかの書き方というか、いくつかの指針があるのです(脚本を書いたことがないのであくまで予想ですが)。
1、あて書き
2、スポンサーの意向
3、原作つきの脚本
4、オリジナル脚本
1~4がそれぞれ組み合わさることもあると思います。
4、これは最近ではなかなか難しい。何しろスポンサーがつきにくいため、宮崎駿、北野武、三谷幸喜などといったビッグネームしか、手を出せない。
3、というわけで、すでに人気のある漫画だったり小説だったりを、ドラマ化あるいは映画しちゃおうというのが、昨今のリスク回避的な流行であります。だから(当たり障りのない)つまんない作品が量産されるわけです。
2、その作品をつくるのにお金を出す側が納得する配役、あるいは、企業イメージを損なうことなく、上げてもらうための配役。企業イメージ。これも、つまんない作品をつくるためのキーワードですね。
さて、1の「あて書き」というのは、誰か特定の役者を思い浮かべながら脚本を書くことで、劇団の脚本はこの手法が取られることが多い。つまり、あて書きの場合、よっぽどのことがない限り、その役をオーディションすることはないので、これは想定から除外したいと思うのですが、除外できないのです。なぜか? オーディションする側が求めている人材はまさにこれだからです。
人間が素晴らしい作品に出会ったときに感じるあれ。心の底からふつふつとわきあがる思い。
「これこそが自分の求めていたものだ」
または、あだち充の「ラフ」というマンガの、主人公の父親が言ったこんなセリフ。
「男のハートの位置は、好きになった女の子が教えてくれるんだよ。キュンと締めつけてな」
製作者はこういうものを求めているはずです。
というわけで、製作者側は、脚本に書いてあるそのままの人間を見つけたい、と願っている。しかしながら、そんな人はまずいませんから、2、スポンサーの意向だったり、または監督の好みだったり、はたまたコネで決まることもあるのだと思います。
で、実も蓋もない話をしますが、オーディションに受かりやすい受かりにくいというのは、もう天性のものだと思います。たとえばフジテレビアナウンサーの加藤綾子さんは、(それぞれ倍率が数千倍という)民放3局で内定をもらった、といいます。ここまで来ると、天才としか言いようがない。野球でいうイチローさんとか、将棋でいう羽生さんレベルの天才です。その年に、いかに優れたアナウンサー志望がいたとしても、加藤さんが同じ会場にいる時点で分が悪くなる。それはもう、どうしようもない。天才には勝てない。これはどこの世界でも同じです。規格外、想定外、例外なのです。自分がそれ(天才)ではないか? と思うのは、GOD引けないかな、というのと一緒で、ただの希望的観測に過ぎません。
オーディションというのはプレゼン大会であり、プレゼンとは「わたしはこれができます」ということに尽きると思います。スロット打ちの論理で言えば、台の特性を知り、店の傾向を知り、そのうえでプラスになる台を打とうとしますよね。オーディションもたぶん同じです。小説の例でいけば、現代ホラー小説を時代劇の賞に応募しても、まず通りません。そもそも読んでもらえないかもしれません。
「何を求められているのか?」
「自分が何をできるのか」
突き詰めていけば、考えるべきはこのふたつです。
A「何を求められているのか?」
B「自分が何をできるのか」
A=Bとなれば、めでたくゴールインです。あるいは、A≠Bくらいでも、受かる場合があるかもしれません。
ただ、
「何を求められているのか?」=「自分が何をできるのか」
という式は、正論すぎる。というか、いささかまっとうすぎます。少なくともぼくはこういう回答を好みません。
「500ゲームを超えていれば打ってよし!」
そういう台は誰でも打てるので、ライバルが多すぎるのです。そこでギャンブラーらしく、発想の転換をしたいと思います。
「こういう人(あるいは作品)を選びたい」という水準がある以上、誰かの思惑の中に飛び込まなければいけない。それはある意味では弊害でもある。たとえば、容姿や声、コミュニケーション能力といった外から見る才能が重視される傾向にあり、そうではない才能を持っていても、理解されることは難しい。
となれば、オーディションなんてやめてしまう。他人のてのひらで踊ることをやめる。自分で踊る舞台は、自分で用意する。どうせこれしかない。好きなことで、生きていく。なら、自分で踊ろう、ということです。
路上で作品を売ってもいいですし、youtubeで作品を朗読してもいい。ブログでもいいし、公共にふさわしくない内容であれば、メルマガで読者を募ってもいい。
「当日がダメなら宵越しを狙え」です。
「宵越しがダメならリセットを狙え」です。
極端な話、オーディションに通らなくても、数億円用意できれば、映画の主役はおろか、監督になれます。もちろん、あえて本歌取りに挑むのも可。ゲーテもこう言っています。
「文学の成功を見てみると、以前の優れた作品の影が薄くなり、そこから発生した新しい物が脚光を浴びる事が多い。というわけで、ときどき古い物を振り返ってみるのも良かろう」
スターウォーズは黒澤明の「隠し砦の三悪人」なしには成立しませんでしたし、三島由紀夫が「失われた時を求めて」や「源氏物語」を自身の作品に取り込んだり、ワンピースにかつての銀幕スターが海軍の偉い人として出てきたり、そういう例は枚挙に暇がない。しかしながら、これは高等技術でもあり、パクリとオマージュの境は曖昧なので、そのあたりは注意したいものです。
余談ですが、ぼくがオーディションで使った一番あざとい手法は、何も喋らず、舞台上で、ただただ自信満々の表情を見せ付ける、というものでした。
「はい。次の人」と審査員の方が言う。
「寿です(ドヤ顔)」
「……え? 何かないの?」と審査員の方が驚いたように言う。
「ありません」終始、自信満々で、胸を張って。
そのオーディションはどうなったか。たしか、ダメだった気がします(あるいは二次で落ちた)。奇手というのは、一度しか使えません。そしてたいていの場合、正攻法が一番強いです。
バカヅキで万枚出した人よりも、毎日コツコツ1000枚、2000枚出すほうが、最終的な出玉は上になります。短絡的にゴト行為に手を染めるよりも、正攻法でコツコツ十年も打つほうがたぶん稼げます。というわけで、天才でない限り、コツコツできない人は、何者にもなれない。そう思います。
たまにはブログっぽい感じでまとめてみます。
1、天才は無条件で世に出る
2、秀才は求められるものを、求められる以上の水準でこなしていく
3、神の子は超絶の運を持っている(たとえば三船敏郎やハリソン・フォードといった俳優のように、何かの手違いが起きるか、たまたまそこにいて、誰かの目に留まる)
ここまでは、天才、秀才、宝くじに当たる人のみにゆるされた、選ばれし者の特権です。ぼくみたいな一般人が使える戦略ではありません。ここからが、一般人が戦略として取りうる選択肢になります。
4、対象を研究し尽くす
5、試行回数でカバー
6、奇をてらう
ここまでやってダメだったら、あきらめましょう。それでもあきらめられない人は、
7、自分で自分の踊る場所を用意する
とはいえ、自分で自分の踊る場所を用意しても、そこで見てくれる人がいなくては何もはじまらない。
こう考えていくと、何かを表現するって、本当にしなければいけないことなんですかね。
「一体この文学というものは天職じゃない、呪いですよ」トマス・マン
今日の一点「エトワール」エドガー・ドガ
矛盾の塊こと寿
当時、ぼくが受けていた(受けさせられていた)のは、役者としてよりも、むしろバラエティのほうが多かった。これはテレビ欄を見ていただけるとわかるとおり、バラエティ番組のほうが数が多いからで、つまり、需要と供給の問題であります。
ともあれ、ドラマにしろ、バラエティにしろ、どんな番組にも筋書きが用意されています(筋書きのない筋書きというのも含めて)。そして筋書き、脚本というのは、いくつかの書き方というか、いくつかの指針があるのです(脚本を書いたことがないのであくまで予想ですが)。
1、あて書き
2、スポンサーの意向
3、原作つきの脚本
4、オリジナル脚本
1~4がそれぞれ組み合わさることもあると思います。
4、これは最近ではなかなか難しい。何しろスポンサーがつきにくいため、宮崎駿、北野武、三谷幸喜などといったビッグネームしか、手を出せない。
3、というわけで、すでに人気のある漫画だったり小説だったりを、ドラマ化あるいは映画しちゃおうというのが、昨今のリスク回避的な流行であります。だから(当たり障りのない)つまんない作品が量産されるわけです。
2、その作品をつくるのにお金を出す側が納得する配役、あるいは、企業イメージを損なうことなく、上げてもらうための配役。企業イメージ。これも、つまんない作品をつくるためのキーワードですね。
さて、1の「あて書き」というのは、誰か特定の役者を思い浮かべながら脚本を書くことで、劇団の脚本はこの手法が取られることが多い。つまり、あて書きの場合、よっぽどのことがない限り、その役をオーディションすることはないので、これは想定から除外したいと思うのですが、除外できないのです。なぜか? オーディションする側が求めている人材はまさにこれだからです。
人間が素晴らしい作品に出会ったときに感じるあれ。心の底からふつふつとわきあがる思い。
「これこそが自分の求めていたものだ」
または、あだち充の「ラフ」というマンガの、主人公の父親が言ったこんなセリフ。
「男のハートの位置は、好きになった女の子が教えてくれるんだよ。キュンと締めつけてな」
製作者はこういうものを求めているはずです。
というわけで、製作者側は、脚本に書いてあるそのままの人間を見つけたい、と願っている。しかしながら、そんな人はまずいませんから、2、スポンサーの意向だったり、または監督の好みだったり、はたまたコネで決まることもあるのだと思います。
で、実も蓋もない話をしますが、オーディションに受かりやすい受かりにくいというのは、もう天性のものだと思います。たとえばフジテレビアナウンサーの加藤綾子さんは、(それぞれ倍率が数千倍という)民放3局で内定をもらった、といいます。ここまで来ると、天才としか言いようがない。野球でいうイチローさんとか、将棋でいう羽生さんレベルの天才です。その年に、いかに優れたアナウンサー志望がいたとしても、加藤さんが同じ会場にいる時点で分が悪くなる。それはもう、どうしようもない。天才には勝てない。これはどこの世界でも同じです。規格外、想定外、例外なのです。自分がそれ(天才)ではないか? と思うのは、GOD引けないかな、というのと一緒で、ただの希望的観測に過ぎません。
オーディションというのはプレゼン大会であり、プレゼンとは「わたしはこれができます」ということに尽きると思います。スロット打ちの論理で言えば、台の特性を知り、店の傾向を知り、そのうえでプラスになる台を打とうとしますよね。オーディションもたぶん同じです。小説の例でいけば、現代ホラー小説を時代劇の賞に応募しても、まず通りません。そもそも読んでもらえないかもしれません。
「何を求められているのか?」
「自分が何をできるのか」
突き詰めていけば、考えるべきはこのふたつです。
A「何を求められているのか?」
B「自分が何をできるのか」
A=Bとなれば、めでたくゴールインです。あるいは、A≠Bくらいでも、受かる場合があるかもしれません。
ただ、
「何を求められているのか?」=「自分が何をできるのか」
という式は、正論すぎる。というか、いささかまっとうすぎます。少なくともぼくはこういう回答を好みません。
「500ゲームを超えていれば打ってよし!」
そういう台は誰でも打てるので、ライバルが多すぎるのです。そこでギャンブラーらしく、発想の転換をしたいと思います。
「こういう人(あるいは作品)を選びたい」という水準がある以上、誰かの思惑の中に飛び込まなければいけない。それはある意味では弊害でもある。たとえば、容姿や声、コミュニケーション能力といった外から見る才能が重視される傾向にあり、そうではない才能を持っていても、理解されることは難しい。
となれば、オーディションなんてやめてしまう。他人のてのひらで踊ることをやめる。自分で踊る舞台は、自分で用意する。どうせこれしかない。好きなことで、生きていく。なら、自分で踊ろう、ということです。
路上で作品を売ってもいいですし、youtubeで作品を朗読してもいい。ブログでもいいし、公共にふさわしくない内容であれば、メルマガで読者を募ってもいい。
「当日がダメなら宵越しを狙え」です。
「宵越しがダメならリセットを狙え」です。
極端な話、オーディションに通らなくても、数億円用意できれば、映画の主役はおろか、監督になれます。もちろん、あえて本歌取りに挑むのも可。ゲーテもこう言っています。
「文学の成功を見てみると、以前の優れた作品の影が薄くなり、そこから発生した新しい物が脚光を浴びる事が多い。というわけで、ときどき古い物を振り返ってみるのも良かろう」
スターウォーズは黒澤明の「隠し砦の三悪人」なしには成立しませんでしたし、三島由紀夫が「失われた時を求めて」や「源氏物語」を自身の作品に取り込んだり、ワンピースにかつての銀幕スターが海軍の偉い人として出てきたり、そういう例は枚挙に暇がない。しかしながら、これは高等技術でもあり、パクリとオマージュの境は曖昧なので、そのあたりは注意したいものです。
余談ですが、ぼくがオーディションで使った一番あざとい手法は、何も喋らず、舞台上で、ただただ自信満々の表情を見せ付ける、というものでした。
「はい。次の人」と審査員の方が言う。
「寿です(ドヤ顔)」
「……え? 何かないの?」と審査員の方が驚いたように言う。
「ありません」終始、自信満々で、胸を張って。
そのオーディションはどうなったか。たしか、ダメだった気がします(あるいは二次で落ちた)。奇手というのは、一度しか使えません。そしてたいていの場合、正攻法が一番強いです。
バカヅキで万枚出した人よりも、毎日コツコツ1000枚、2000枚出すほうが、最終的な出玉は上になります。短絡的にゴト行為に手を染めるよりも、正攻法でコツコツ十年も打つほうがたぶん稼げます。というわけで、天才でない限り、コツコツできない人は、何者にもなれない。そう思います。
たまにはブログっぽい感じでまとめてみます。
1、天才は無条件で世に出る
2、秀才は求められるものを、求められる以上の水準でこなしていく
3、神の子は超絶の運を持っている(たとえば三船敏郎やハリソン・フォードといった俳優のように、何かの手違いが起きるか、たまたまそこにいて、誰かの目に留まる)
ここまでは、天才、秀才、宝くじに当たる人のみにゆるされた、選ばれし者の特権です。ぼくみたいな一般人が使える戦略ではありません。ここからが、一般人が戦略として取りうる選択肢になります。
4、対象を研究し尽くす
5、試行回数でカバー
6、奇をてらう
ここまでやってダメだったら、あきらめましょう。それでもあきらめられない人は、
7、自分で自分の踊る場所を用意する
とはいえ、自分で自分の踊る場所を用意しても、そこで見てくれる人がいなくては何もはじまらない。
こう考えていくと、何かを表現するって、本当にしなければいけないことなんですかね。
「一体この文学というものは天職じゃない、呪いですよ」トマス・マン
今日の一点「エトワール」エドガー・ドガ