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元旦なので、テンション高めでいきます。

人間は、魔法が使えません。
人間は、超能力も使えません。
人間には、前世から続く宿命の敵なんていません。

そんなあたりまえのことを発見したのは誰でしょう? 
ぼくは小説だと思っています。
近代小説、すなわちNOVEL(新しきもの)の歴史は、「ドン・キホーテ」をもって嚆矢とする、と言われております。それ以前の物語は小説ではなく、ドンキホーテに至って初めて小説になった。
では、その「ドン・キホーテ」の主人公、ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャとはどのような人物でしょうか?
ウィキペディアにはこうあります。


騎士道物語(当時のヨーロッパで流行していた)を読み過ぎて妄想に陥った郷士(下級貴族)の主人公が、自らを伝説の騎士と思い込み、「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」(「ドン」は郷士より上位の貴族の名に付く。「デ・ラ・マンチャ」は「ラ・マンチャ地方の」の意で、出身地を表す。つまり「ラ・マンチャの騎士・キホーテ卿」と言った意味合い)と名乗り、痩せこけた馬のロシナンテにまたがり、従者サンチョ・パンサを引きつれ遍歴の旅に出かける物語である。


簡単に言えば、おかしな人です。
どうしてこのおかしな人が、人類史に残る、ノヴェル(新しきもの)の主人公になったのか、作家、島田雅彦は、小説の独自性について、自己批評、という言葉で語っています。


セルバンテスが行っているのは批評です。中身が伴わないのに、コスプレだけやって英雄ぶっている奴が、どれほど滑稽か。語り手はこの認識に立脚しています。それは、自己批評以外のなにものでもありません。

(寿注・セルバンテスはドン・キホーテの作者)”

以下、ぼくなりに「ドン・キホーテ」のあらすじを語ってみます。

主人公は郷士、下級貴族ではありますが、今で言うニートみたいなものです。貴族のたしなみである狩猟もせず、自分の領地にある畑にも関与しない。というわけで、貧乏暮らしを余儀なくされる。しかし自分の読みたい騎士道物語はどうしても欲しい。どうしよう? 畑地を売ってしまうのです。
そしてついに、騎士道物語に入り込むあまり、彼は遍歴の騎士「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」となって、世の中を正そうと立ち上がるのです。完全にクレイジーです。
古い鎧を引っ張り出して、所有していた痩せた馬を「ロシナンテ」と名づける。挙句の果てに、騎士たる自分には姫が必要だと考えて、とある田舎娘を「ドゥルシネーア姫」という名前に変えて、思い慕う。しかし、実際の彼女は、村一番の力持ちにも負けないほどの腕力があり、がっしりして、背も高く、胸毛でも生えてそうな女子なのであります。
さて、ついに旅に出るドン・キホーテ。途中で出会った商人たちに、ドゥルシネーア姫の美しさがなぜわからないのだ、と襲いかかります。が、ドン・キホーテは、逆にボコられて、農民に拾われて、家に戻るのでした。
ドン・キホーテの家に住む人間たちは、彼のそのキチガイじみた行動を、本のせいにします。そうだ、燃やしてしまえ、と、本を燃やしてしまうのです。
やがて回復したドン・キホーテには、書斎は魔法使いに消されてしまった、と告げます。
「そうなんだ」と納得するドン・キホーテ。
しかしこの男、遍歴の騎士になることをあきらめません。近所に住む農夫、サンチョ・パンサという、ドン・キホーテとは性格が間逆な男を甘言で誘い、従者として旅に付き合わせることにしたのでした。
さて、ガリッガリの馬、ロシナンテに乗ったドン・キホーテ、そしてサンチョ・パンサは、憎き敵めがけて、突進します。ついに見つけたぞ。巨人め! けれどその相手は、風車でした。ドン・キホーテはあえなく吹き飛ばされ、荒野に倒れるのでした。

何なのこの話。……あらすじだけでめちゃくちゃ面白くないですか?

この数千年というもの、人間はほとんどまったく変わっていません。というわけで、人々が物語に望むことは今も昔も変わりません。見たくない現実なんて、見たくない。だから物語では、常にその時々の理想が語られます。人を殺さない剣士。略奪しない海賊。質量保存の法則(というより、質量とエネルギーの等価性)を無視する魔法使い。あるいは逆に、あまりに登場人物にとって辛らつな世界。すべてが主人公の敵になる世界。それらはある意味では、神々の世界、あるいは、選ばれし者のみにとって都合の良い架空の世界です。

しかしノヴェルの誕生は、人間の時代の到来を意味していました。神でもない、王でもない、英雄でもない、天才でも、ただの道化でもない、ドン・キホーテの行動によって。
セルバンテスは、「ドン・キホーテ」を通し、ノヴェルを読む人間、すなわち神ならぬ人間が、理性を持つ生き物であることを証明しています。
もちろん、人間は時にどうしようもないほど愚劣な行動を取ってしまいます。しかし一方で、その愚劣さを客観的に捉えることのできる知性も保持している。
主観(あるいは見る可能性)と、客観(あるいは見られる可能性)。
ふたつの世界の狭間で、ドン・キホーテはどんな夢を見ているのでしょうか?

ぼくもセルバンテスに倣い、今年も「書くこと、賭けること」を通して、世界を見つめたいと思います。

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