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我輩は小説家である。

が、肩書きなんてものは、国家や権威が担保してくれるものと、自分以外何も担保してくれないものがあって、たとえば「学者」という人たちは、多くの場合、国家権力の庇護の下、研究することが多い。しかしその「学者」が権力に迎合したり、権力にとって都合のよい研究に勤しんだりしたら、「御用学者」と言われ、忌み嫌われる。そういう意味では学者とはロックミュージシャンに似ている。何か話がずれたな。まあいいや。

対して、作家、小説家、芸術家、というのは、己(あるいは自分の作品)以外何も担保にしない(できない)人間の肩書きであり、また、それがゆえにオンリーワンを目指すのであり、夏目漱石や宮崎駿のような「ナショナルライター」いわゆる国民(的)作家というのはいるが、国家公認小説家なんてのはいないし、もしいたとしても、その人の小説がつまらないことの肩書きな気がする。

同じく、スロッターというのも、自分で名乗るしかない肩書きである。国家公認スロッターもいなければ、メーカー公認スロッターというのもいない。国家にとってスロットユーザーはランニングコストの高めな一国民に過ぎないし、メーカーにとってスロットを打つ人間はもれなくお得意様であり、たとえメーカー公認スロッターがいたとしても、それはただの広告塔である。だからスロットで食っていくなんて考えるスロッターは、誰からも嫌われ、疎んじられる存在である。

が、少なくともスロットのプロを名乗る以上は、それで生活が成り立たなければいけない。しかし、作家、小説家、芸術家はその限りではない。
要するに、誰にでも名乗れる肩書きなのである。何かを表現してさえいれば(つまり、生きてさえいれば)、それだけでなれるのだ。
ということで、その肩書きを名乗る人間の大多数は、ゴミ箱にポイと捨てられるような人間である。事実生ゴミみたいなものだし、俗世間から見れば、犯罪者予備軍クラスの扱いなのである。

そんなモノを自称して何が楽しいのか? と問われたとして、けっこうマジメに答えるとすると、人生で経験するすべてが「反映」できるところかな、と答えると思う。
すべてのインプットがアウトプットとして別の形になるのだ。こんなに楽しいことは他にはない。
ただ、その楽しさは諸刃の剣であって、「作品」を人生よりも優先してしまう、という弊害がどうしても生じる。作家の人生は、作品づくりという「ファーストプライオリティ」に殉ずる犠牲の人生になってしまうのである。
哀しみや、喜び、その感情に先んじて、それが文章化できるかどうかを考える脳みそになってしまう。
これは実にしんどいことである。

「飲みに行こう」と言われて、「すまん。今、小説を書いているから」と言って断ると、相手は「……」沈黙するしかなく、その沈黙の理由は推して知るべしだけど、たぶん、「コイツ、ナニイッテンダ?」という沈黙なのだろう。このニートが、この無職が、なぜゆえ断るのだ? という沈黙なのだろう。

違うのだ。ナニよりも大切だから、こういう生き方をしているんである。ナニをしていても、文章のことが念頭にあるからこんな生き方になってしまうのである。

歌っているときも、踊っているときも、腰を振っている最中も、結婚式でも、葬式でも、スロットで大負けしたときも、風邪で死にそうなときも、二日酔いで死にたいときも、いつも、どこででも、優先すべきもの(文章)がある。
気持ち悪いといえば、これほど気持ちの悪い生業もない。

ゲーテ「ファウスト」の中で悪魔メフィストフェレスはこんな甘言をささやく。


「どうです、手を打ちませんか。御契約をなさいませんか。あなたがこの世にあるかぎりは、わたしの術でたんと面白い目を見せて差し上げます。まだ人間が見たこともないような面白いものをね」と。

ファウストは言う。
「賭けるか」
メフィストフェレスは言う。
「賭けましょう」 


小説家として生きようとすることは、悪魔と契約するような、神をも恐れぬギャンブルである。

「小説家は天職などではなく、むしろ呪いだ」
トーマス・マンは、「トニオ・クレーゲル」という小説でそのようなことを語っている。

スロプロにしても、パチプロにしても、プロブロガーにしても、ユーチューバーにしても、歌手にしても、画家にしても、映画監督にしても、小説家にしても、楽しい仕事なんてロクなもんじゃない。
その楽しさは、機械割のよくわからない台で、ゼンツッパする楽しさである。
スロットならば、閉店という強制的な幕切れが存在する。が、人生に閉店はない。ゼンツッパの結末は、勝つか、負けるか、あるいは死ぬか、その三つ以外にありはしない。

本日の絵画「郵便配達夫ジョゼフ・ルーランの肖像」フィンセント・ファン・ゴッホ

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