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小説に集中しているときはスロットの話を、そうでないときは小説の話を書きたがる、というのが、どうやらこのブログの特徴みたいである。
ぼくは小説の疲労をスロットで癒し、スロットの疲労を小説で癒し、と、互助的に両者を使い分けている節がある。その架け橋がこのブログだ。ジコマンと言われればその通りなのだけど、ともあれ、今日は久々に小説の話をしましょう。

ざっくり言うと、小説を書くにはふたつの方法がある。

ひとつは、設計図をきっちりと書き、その図面どおりに物語を構築していく建築家タイプ。
ひとつは、筆の運ぶがままに突き進んでいく、作者自身も小説を書きながら物語を体験する探検家タイプ。

音楽で言えば、練習したことをそのまま本番で表現するクラシックと、その日の感覚で演奏方法はおろか、曲すらも変わるジャズのインプロビゼーション(即興演奏)の違いといったところ。

日本文学で言えば、前者の代表ですぐ思いつくのは三島由紀夫(ダムの建設にたとえている)であり、後者の代表は村上春樹(RPGにたとえている)か。

スティーブン・キングは言う。 
「私は作者であると同時に、一番乗りの読者である。先々何が起こるか知っている私にしても結末を正確に予測できないとすれば、読者が期待に急かれてページを繰るであろうことは疑いない」

ぼくはというと、表現の「核」を基にざっくり構想を練り、後は流れにまかせるというハイブリッドタイプである。
まずは、その作品を書くに足る「核」(それはワンシーンだったり、セリフだったり、書きたい設定だったりする)があり、それを基に設定なりおおよその分量なりを決め、書き進めていく。

が、表現の「核」が作品として完成する確率は、人生トータルで3割に満たない。これはぼくの未熟なところであり、職業作家として成立する人は、このアベレージがぐっと上がる。というか、上がらなければ仕事にならない。
そのコツが、「構想」をまとめる技術にあると言っても過言ではない。

ゲーテは言う。
「立派なものであれ、とるに足らぬものであれ、どんな芸術作品でも、微細な所まで、万事、構想次第なのだ」と。

たとえば、スロットをモチーフに小説を書こうとする。これが「構想」のはじめである。
その小説が成立する条件。これが「核」である。
その核をどのように見せるのか、または包むのか、道筋を決めるのか。登場人物たちの性格、環境、趣味、という設定。これが、「構想」である。
その「構想」にオリジナリティがあり、かつ、読む人間の心をさらう魅力に満ちているならば、できあがる作品が悪いものになりようがない。

また、ゲーテはこうも言う。 

「ディレッタント達は、 出来得る限りの仕事をした後でも、 仕上げは未だだ、と、必ず弁解する。

 スタートの仕方が間違っているのだから、仕上げられるわけはないのだ。

 名人は、ほんの僅かなタッチで、完成作品を作れる。仕上げの筆を入れようと 入れまいと

 最初のタッチで完成しているのだ。  

                 中略

 ディレッタント達の間違いは 空想と技術を じかに むずびつけようとする事」

と。

ディレッタントとは、趣味人というような意味で、要はプロではない人のことである。つまり、 これは画竜点睛を欠く、という話をしている。達人の筆さばきは、初手が完成形なのだ。

というのは、もちろん理想論であり、ぼくのような凡人が神殺しに挑むには、汚れ仕事でも何でも遮二無二やらねばなるまい。
井上雄彦の描く宮本武蔵の言う、「人を斬って斬って斬りまくる日々」が必要なのだ。あるいは本位田又八のように、間違った道を進むことも必要だと思うのだ。回り道は、その人間の確かな歩みの証拠でもあるのだから。これがぼくの精神と時の部屋での日々である。

ところで、ゲーテは自身の文章の中で、画家、レンブラント・ファン・レインの言葉を紹介している。

「レンブラントの言葉を紹介。『私の絵画の匂いを嗅ぐべからず。絵の具は毒だぜ』」

スパイスのない料理が味気ないように、ビートのない音楽に乗れないように、お金のかからないスロットに真剣になれないように、毒性のない物語はいまいちハマれないものである。

村上春樹はこういうことを言っている。
「不健全な魂は健全な魂に宿る」
物語(≠不健康)なものと付き合うには体力がいる。だから毎日走るのだ、と。 

「ギャンブルをしてはいけない」
「他人の不幸せを願ってはいけない」
「期待値よりも徳を積め」
「親を大切に」

飯を食べたら糞になるようにあたりまえの話だ。が、あたりまえの話は誰も望んでいない。

太宰治の「人間失格」から、毒の効用について語っている部分を紹介したい(青空文庫より)。


 酒、煙草、淫売婦、それは皆、人間恐怖を、たとい一時でも、まぎらす事の出来るずいぶんよい手段である事が、やがて自分にもわかって来ました。それらの手段を求めるためには、自分の持ち物全部を売却しても悔いない気持さえ、抱くようになりました。
 自分には、淫売婦というものが、人間でも、女性でもない、白痴か狂人のように見え、そのふところの中で、自分はかえって全く安心して、ぐっすり眠る事が出来ました。
 ” 


 非合法。自分には、それが幽かに楽しかったのです。むしろ、居心地がよかったのです。世の中の合法というもののほうが、かえっておそろしく、(それには、底知れず強いものが予感せられます)そのからくりが不可解で、とてもその窓の無い、底冷えのする部屋には坐っておられず、外は非合法の海であっても、それに飛び込んで泳いで、やがて死に到るほうが、自分には、いっそ気楽のようでした。
 日蔭者ひかげもの、という言葉があります。人間の世に於いて、みじめな、敗者、悪徳者を指差していう言葉のようですが、自分は、自分を生れた時からの日蔭者
のような気がしていて、世間から、あれは日蔭者だと指差されている程のひとと逢うと、自分は、必ず、優しい心になるのです。そうして、その自分の「優しい心」は、自身でうっとりするくらい優しい心でした。
” 

人間が生きるとは、「社会性の檻」の中での苦役みたいなものである。だから我々は、たまさかの時間、その檻から解き放たれたいと願う。
だからハリー・ポッターは魔法を使い、だからモンキー・D・ルフィは海賊王を目指し、だからナウシカは空を翔ける。
それを見て、読者はフゥアる。 バジる。泣いたり、笑ったりする。


読者側の理由があれば、作家側の理由もある。
作家には固有の主題がある。
「初期衝動」
それは最初、わかりやすい形をしている。
「名誉」だったり、「お金」だったり、「承認欲求」だったり、「楽しさ」だったり、「もてたい」だったり、単純な形をしている。人間が何かをはじめるときの動機はそれほどヴァリエーションがあるわけではない。
が、表現に不可欠な「核」を包む器は、段々と洗練されていく。否応なくされていく。

スティーブン・キングは言う。

「私は何を書いているのか迷わず自分に問うようになった。ただちに答えが出るとは限らないが、答えはきっとある。見つけるのにさして苦労はない。作家がそれほどたくさんの主題を抱えているとも思わない。 重ねて言う。主題を大袈裟に考える必要はない。一日の終りに意識に浮かぶ疑問である」

スロットを打っていて、思うことがある。

ドル箱を何箱も積んでも、大負けしても、ひとり。帰り道、空を見上げて考える。ぼくはどうしてこんなにもひとりぼっちなのだろう? 

それがこのブログの主題である。
このブログを更新する理由である。

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P.S.記事を書いた後で、テレビでレンブラントが特集されていた。ご飯を食べながら、見るともなく見ていると、レンブラントの絵は、近づくのではなく、離れて見ると、美しく映るように描かれている、ということを、専門家がおっしゃっていた。

 「レンブラントの言葉を紹介。『私の絵画の匂いを嗅ぐべからず。絵の具は毒だぜ』」

目からうろこが落ちた。