小学校を卒業してからというもの、「さようなら」という言葉を使うことがほとんどない。


数年前、異国で生活していたときに、知人に「SAYONARA」と言われ、オウム返しで使ったくらいであった。
……思うところがあり、後日、ぼくはこんこんと、今日の日本では、「さよなら」という言葉は使わないよ。むしろ、困惑させるのためのワードだよ、みたいなことを(酔った勢いで)語った。
「じゃあ、何て言うの?」と彼は英語で言った。
「じゃあね、とか、またね、とかかな」とぼくは言った。
「jaane,matane? それ、どういう意味?」そう言われ、はたと考えてしまった。

じゃあ、を英語にすると、andとかsoだろう。またね、というのはシーユーアゲインだ。ああ、と思う。今我々の使う別れの言葉はほとんどすべて、この状態をキープしようぜ、あるいはto be continuedという意図があるのだな、と。

さよなら、さようなら、という言葉の語源は、「左様ならば」であり、接続的な意味合いであり、ぶっちゃけ、じゃあね、とあんまり変わらない。が、どうしても重苦しい感じがする。ばっさり斬られる感じがする。「今生の別れ」という鎧をまとった武士に、である。

なぜかといえば、それは我々が侍の国のカルチャー「散る美学」を否応なく受け継いでいるためであり、ではどうして「さよなら」という言葉が忌避されているかといえば、それはもちろん、そんな潔いカルチャーよりも、グローバリズムに迎合しようぜ、メーン、ということなんだな、とぼくはその瞬間に気づいたのだった。

が、そんなことをぼくのしょぼくれた英語力で伝えられるはずもなく、
「またね、というのはsee you againということで、さようならではなく、こんなフランクな言葉が浸透したのは、言うまでもなく、アメリカのせいである」みたいな風に、責任をアメリカに押し付け(グローバリズムの発生を鑑みれば、当たらずとも遠からずでしょ的に)、お茶を濁したのだった。
「ふうん」とわかったようなわからないような顔で、彼はうなずき、違う話題に移った。


さて、関西からの帰り道である。
ぼくのポリシーのひとつに、「移動に費やす時間は長ければ長いほどよい」というものがあり(瞬間移動が一番味気ないでしょ)、だからこそぼくは小説家なのであり(だって小説の一番の特色は読むのに時間がかかるということだから)、簡単に言えば、どうせ帰るのだからゆっくり行こうぜ、ということであり、ならばまずは疲れを取ろうと温泉に寄ることにした。

体を洗って旅の垢を落とし、誰もいない温泉に浸かった。
「ふう」と一息ついた。42度の温泉は、いい湯だなババンバンであった。
目を閉じて、目を開けた。お湯をすくって顔にかけた。いい湯だなババンバンであった。

と、体をびしょびしょにぬらしたまま、キョロキョロと様子をうかがう東アジア系の青年がやってきて、温泉に足をつけては足を上げ、足をつけては足を上げ、をくり返している。入るのか、入らないのか、どっちやねん状態である。
日本人ではないだろう、とぼくは思った。そして、この人は善い人だ、とも感じた。謙虚さが肌からにじみでていたからだった。
旅行者だろう、という予想のもと、「熱いですか?」と英語で聞いてみた。
「ん?」彼はぼくの言葉が理解できずにクビをひねった。
「熱、過ぎますか?」とぼくは再度英語で言った。
ようやく理解したのか、「イエア、ハット(熱い)」と彼は幾分クセのある英語で言った。
「あっちはもう少しぬるいですよ」とぼくは日本語訛りの英語で言った。
「うんうん」という風にうなずいて、彼はお風呂に入ってきた。
(理解されてないな)と思いつつ、「温泉ははじめてですか?」と英語で聞くと、「初めてです」と彼は英語で答えた。
「楽しんでね」と言い、ぼくはお湯を顔にばしゃっとかけ、ああ、ついに家に帰るのだなあ、とかなんとか感傷的なことを考えていると、
「あ、あのお」という風に、青年が英語で話しかけてきた。
「はい?」
「あなたは、このあたりに住んでいる、ますか?」
「いや、ただの旅行者ですけど。あなたは?」
「ぼくも旅行です。台湾から妻と来ました」
「oh really」とぼくは言う。「新婚旅行(ハニィムーン)?」
「セカンドハニィムーンです」と彼は言った。
「日本はどうですか?」と、ぼくは質問した。
「とてもいいです」と言いながら、彼は指を一本ずつ伸ばしながら、「1、人がいい2、街がいい3、ご飯が美味しい4、~がいい」と言った。
最後は何を言っているかわからなかったけれど、悪いことを言っているはずもなく(たぶん物価がそんなに高くない、ということを言っていたのだと思う)、ともかく、日本は四拍子そろっている、と彼は言ってくれたのだった。
「それはそれは、ありがたいこってす」と、ぼくは日本人らしく慇懃な態度で頭を下げた。

「日本語は何か覚えた?」今度は打って変わってフランクな調子でぼくは言った。
「ありがとうございます」と彼は言う。「すいません。そのふたつ、かな」
「へえ」

いつか台湾行ってみたいんだよね、というぼくの言葉から、台湾の話をしたり(台湾にも温泉はあるのだけど、こんなに熱くないのが一般的らしい)、また、東京には行ったことがない、という彼の話から東京の話をしたり、そんなこんなでのぼせてきた様子の彼に、「向こうに移らない?」と提案した。
「ええ」と彼は快諾し、ぼくたちはぬるいほうの温泉に移動した。
「あっちは熱かったでしょ?」とぼくが言うと、「うん。こっちのが優しい」と彼は言った。

足湯の状態で、ぐじゃぐじゃの英語で適当な話をしているうちに、けっこうな時間が経過しており、「時間大丈夫?」と聞くと、ああ、こんな時間か、というような顔をして、彼はぼくに握手を求め、色々と教えていただいてありがとうございました、と英語で言ってきた。
「いえいえ、こちらこそ。日本を楽しんでください」とぼくは言って、彼は体を洗いに向かった。

取り残されたぼくは天井を見上げ、温泉に肩まで浸かり、ああ、ついに家に帰るのだな、と感傷的なことを考えていた。

体を洗い終えた青年が、帰り際、何かを思い出したかのように「あ」と言った。
「もうひとつ、日本語を知っていました」
「え?」
「SAYONARA!」

……さようなら。
何か、嬉しいような、哀しいような、不思議な気分に包まれたぼくは、「さよなら」と返しながら、何かないか何かないか、のドラえもん状態で、中国語で知っている言葉を探した。
あ。
「再見!」と彼の背中に向かって言うと、彼は立ち止まり、にっこり笑って「再見!」と言った。

ガラガラ、と温泉と脱衣所を仕切る扉が開き、そして、ガラガラ、と閉まった。
取り残されたぼくは天井を見上げ、そうか、中国語でも別れの言葉は「see you again」なんだな、と思った。

また会おう、という挨拶は万国共通なんだな。ユニバーサル、普遍的、全世界的な感覚なんだな。
それに比べると、左様ならば……で断ち切るのは普通の感覚ではない。が、一度の人生、あるかないかの次に期待するよりも、今をこそ大切にするべきで、であるならば、「さようなら」の精神をないがしろにしてはいけない。
それが春夏秋冬、花鳥風月の土地の心得である。それでこそおもてなしである。一期一会である。はず。と、ぼくは思ったのだった。

……何か日本文化論みたいになってきたな。ま、いいか。さすがに熱いの出よう。
ガラガラと脱衣所のドアを開け、バスタオルで体を拭き、髪を乾かし服を着て、建物の外に出て、川沿いの道を歩いた。火照った体に秋の風が吹き過ぎていった。山々が色づきはじめていた。木々萌ゆる秋、であった。

それではみなさんさようなら
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