書くこと、賭けること 深夜版 

あれですね。ほんとあれですね。
価値観がお金に一極集中してますね。

といって、昔はよかった、なんて言いません。昔など存在しません。時間はとどまることなく永遠に流れているわけで、あるのは永遠に続く今、のみ。今よりよい昔があるのだとしたら、記憶の中のお花畑だけです。そこでは花々は、永遠に枯れず、輝きが褪せない。でも、それは幻想だと思います。


※今日は信仰という言葉がたくさん出てきますけど、カルト的な意味合いの信仰では全然ありません。
ざっくり言うと、「~が好き」「~と思う」「~になりたい」「~をしたい」「~を信じる」という個人的な希望、願望、想いはすべて信仰のヴァリエーションである、ということです。ということで、今回の記事は「意味不明注意ですw」


人はそれぞれ、優先順位の先頭に掲げているものが違います。それも信仰のようなものです。

十月にシンガポールで行われたサッカーの日本代表対ブラジル代表の試合を難波のスポーツバーで見ていたのですが、そこで隣に座っていた女性二人は、サッカーの試合をそっちのけで、延々恋愛トークに花を咲かせていました。
「惜ッしィっ!」とぼくが叫んでいる横で、「マジで、イケメンやと思わへん?」スマホを見せる。「せやな。でもうちの後輩にはもっとカッコイイ人おるよ」スマホを見せる。みたいなことが行われていて、おい。ネイマールの動きを見とけよ、と思ったり思わなかったりしましたけど、ことほどさように、人にとっての優先順位は違います。

しかしながら、ことお金、ということになると、ほとんどあらゆる人間の思考がストップします。それはまさに全知全能の神の降誕のように。
ぼくもそうですし、おそらくは恋愛トークの女子たちもそうだと思います。

「お金」

お金を疑う人はあまりいないでしょう。「お金だけは裏切らない」「お金だけが信用に足る」という言説は、そこここで見られます。
でも、冷静に考えてみて、あの一枚22.2円で印刷局から日本銀行に渡される一万円札が、あの、一円玉、およそ2円のコストがかかっていると言われるあの一円玉の一万倍の価値がある、と信じきることも、信仰の表れに他なりません。

先日、こんな言葉を見かけました。
「友人関係は、フィフティフィフティが基本である」と。

ぼくは黄金のジャンプ世代ですので、友人関係は、自己犠牲が基本だと思っている節があり、だからこそ、基本的に友だちにはジャンプマンガの主人公のように甘えます。

「なあ、今日、泊めて」とか、平気で言います。「今ヒマ? 飲もうぜ」とか、当日に平気で言います。その対価を支払うつもりはさらさらありません。ぼくが今、泊まる場所がなくて困っているからそう言っているわけで、ぼくが今飲みたいからそう言っているわけで、その点、百パーセント自己中心的に、ぼくは世界を捉えています。
だから友だちが少ないのだ、と言われればそうなのかもしれませんけど、イーブンな関係こそが友人関係なのだ、という文言には、何とも違和感を覚えました。

ぼくが失職して以来、一度たりともぼくに金を払わせない友人がいます。彼とぼくはぼくの中では百パーセント対等な関係ですが、ことお金の面に関しては、100対0で、友だちの好意に甘えています。そのことを、イーブンな関係こそが友人関係、と思う人が見たら、ぼくはヒモみたいな存在だと思われるのでしょうか。

友だちって何ですかね。

以前、「友だちは必要か?」「続 友だちは必要か?」という記事を書いたことがありますが、

基本的な考えかたとして、その人の負の面を踏まえた上で、それでもその人と一緒にいたいと思える人間としか友だちにはなれない、と思うのです。
相手は別の人間なわけで、ならば考え方が同じはずがない。同じように見えても、違う。その違う価値観をお互いに受け入れられるかどうか。その作業がイーブンなはずがない。

友情とは、その人の負を受け入れる義務と、自分の負を委ねる責任のパス交換だとぼくは思います。この理論で言えば、テレビ版(あるいは通常モード)のジャイアンに友だちはいません。かわいそうですけど。

ぼくはこう思う。これも、信仰のひとつの表れです。
昔のスロット仲間が、今でも楽しそうに、これ六や、と言いながら、根拠のない台をぶん回している姿を見て、(マジメな顔で)ぼくとは違う人間なのだな、と思います。でも、ぼくと彼は、友だちです。

「それさあ、おまえ損するだけだからやめたほうがいいのではないか?」と言ってもしょうがない。それが彼の信仰であり、その彼の信仰を崩しても、どうしようもない。
もし彼に、「おまえのやっている文章を書くということは、損をするだけだからやめたほうがいいのではないか?」と言われても、「だから?」と言う以外にないように。

もちろん、到底受け入れられないことを友人が言い出すときもあります。
十数年前、彼がネットワークビジネスに手を出す、と言い出したときは、死ぬ気で止めました。が、止まりませんでした。
すぐあきらめてくれましたが、あのまま彼がその道に進んでしまったとして、友だちでいれたでしょうか? たぶん、ムリでしょう。
ですが、新興宗教にはまろうが、ネットワークビジネスに勧誘されようが、こいつは友人である、と言える人こそが、友だちだと思います。

それはほとんど矛盾です。いや、完全に矛盾です。友情とは、それほどシビアでドライでホットで高度なものだと思っています。

ここからが今日の記事の本旨なのですが(長い前置きで申し訳ない)、

「あなたは、自分をどのような人間と考えていますか?」という質問をされたとして、

「ぼく(わたし)はめっちゃいいやつです」と答えられるでしょうか。
あるいは、
「ぼく(わたし)はめっちゃやなやつです」と答えられるでしょうか。

ほとんどの人間には、二面性があります。

ほとんどの人間は、「いいやつ」と「やなやつ」の間をふらふらとさまよっています。

「やなやつ」の面を見たら、ほとんどの人間が「こいつやなやつやな」と思うでしょう。
「いいやつ」の面を見たら、ほとんどの人間が「こいついいやつやな」と思うでしょう。

ですが、その印象はほとんどの場合、あてになりません。

と、同時に、他人から見た自分の良いとされる部分、それは自分にとってけっこうどうでもいいことだったりします。

優しい→遠慮しているだけかもしれない。
人の話をよく聞く。→遠慮しているだけかもしれない。
慎み深い→遠慮しているだけかもしれない。
人当たりがいい→遠慮しているだけかもしれない。

遠慮を除いたときに出てくる顔。それはどういう顔なのでしょうか?
何にせよ、100%いいやつもいなければ、100%やなやつもいない。現実的には、そんな人間が存在する理由がないからです。

売り言葉に買い言葉でひどいことを言ってしまうことってありますよね。
酔って気が大きくなって、つい、いらんことを言ってしまうことってありますよね。
悪気がなくても言葉の綾的に相手を傷つけてしまうこともありますよね。

悪気なんてなかったのに。
何でこんなことしたんだろう? と、普段の脳みそで考えてもわかりっこない。

ただ、自分のやな部分は、自分が引き受けるしかないんですよね。それが自己責任というやつです。
友だちも同じじゃないでしょうか。ある意味、友情というのは、究極の概念です。

セックスという種の保存の欲求の相手でもなく、
お金という生活のための「神」のご来光もなく、
ただ、生活の延長線上ですれ違っただけの人と、「責任」と「義務」を交換する。
聖なる儀式のような、関係。

であるならば、やはり友情には資本主義の理論は適用できないと思います。等価交換などと言っている間は不可能です。そのような適者生存、弱肉強食の世界から最も遠いのが友情だからです。

「友情」
それは人類にはまだ早い概念ではないか、と思ったりもします。

ともあれ、他人をどうこう論ずる前に、まずは自分を何とかしなければいけない。逆に言えば、自己に対する責任と義務を引き受けて、そこで初めて友情の問題を論ずるスタートラインに立てる。
そんな気がします。今のぼくでは無理ですが。

金だ。金だ。期待値だ。期待値だ。期待値を追わなきゃね。きちんとね。意識高いね。意識高い系だね。友だちになろうよ。フェイスブックやってる? イイネしてよ。ラインIDはある? 何で既読にならないの? へえ。そういうの抵抗ないんだ。ブログやってんだ? ランキングの上に行きたいからポチっとクリックしてね! あじゃじゃしたー。SEOちゃんとしてる? 最適化だよ最適化。意識高いね。意識高い系だね。ユーチューブ? ユーチューバー? アフィは? アフィ! イエス! SNS! SNS! イエス! SOS SOS……

……こうしている間も、時間は流れ続けています。眠いので、寝ます。

will you please be quiet,please. 寿

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