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文才とは何か

文体については一度記事で触れたことがあるのだけど、今日はもう少し奥まで掘り進んでみたい。
意味分からん、とか、キショイ、とか、そんなん言わんと、ちょっと付き合ってくだされ。そのうえで悪口、罵詈雑言なりを頂けるのであれば、光栄至極。是非。是非に。

文体とは何かを突き詰めていくと、究極的にはこの問いにぶちあたる。

「人間とは何か?」

人間とは何か。
すべての芸術は必ずその主題を内包している。その主題は問いでありながら、そのまま答えでもある。
人間とはつまり、「人間とは何か」を問う存在なのである。

というわけで、文体の模索は必然的に何かに似てしまう。何に。そう、自分探し、にだ。
一般的に、自分探しという試みはことごとく失敗する。なぜなら自分の中に自分はないからだ。

そもそもの話、自分とは、自分を自分として自覚した瞬間生まれる。自分を自覚するとはどういうことか。他者の存在を認識する、ということである。

これは「卵が先か、鶏が先か」という問題である。

別のたとえで言えば、或るはげたおっさんのデコに向かってビンタをかます。このとき、音が出るのはおっさんのデコか、あるいは、我輩の手か、という問題である。

そして、このような問題に答えはない。

「卵が先か、鶏が先か」
この問いじたいが究極の答えだからである。

堂々巡りの問いは、問い自体が答えである場合があるという話であり、この例でいくと、ぼく、という存在は、最初から引き裂かれて存在する。

ひとつは、代替する存在のない主人公としての「自分」
もうひとつは、種としての人類のひとり、その他大勢、ワンオブゼムである「自分」

これはひとりの人間を捉える際に、「主役」と「モブキャラ」くらいの違いがある。そしてこの二種類の「自分」という問題が、人間の営みで起こる問題のほぼすべての根本にある。
他人がいなければ自分もいない。ということは、人間の問題は人間関係の問題であり、人間関係の問題は、「自分」を優先させるか、「関係」を優先させるか、つまり、「自己か、社会か」という問題に集約される。

というわけで、自分という存在を、ぼくはこのように考えている。
「ぼくという存在は、こちらから向こうに向かう、一方通行に近い、存在である」と。

なぜなら、ぼくはどこまでも拡大できるのだ。地元にも、地域にも、国にも、大陸にも、地球にも、太陽系にも、銀河系にも、宇宙にも同化できる。が、ぼくはぼく以外に分割できない。ぼくにとってぼくより小さいもの存在しない。
ぼくの細胞は、あくまで「ぼく」の細胞。ぼくの心臓は、あくまで「ぼく」の心臓なのだ。

これが(今のところ)ぼくのぼくによるぼくのためのぼくという存在の答えだ。
「世界で最小、最軽量の存在、それが『ぼく』」なのである。

こう考えてみると、自分探しなんて実に簡単なものである。が、この結論が、ぼくだけに有効な結論だとしたら、まったく意味がない。
文章を書く。ぼくがぼくと書いてそれが単に「ぼく」、すなわち単なる一人称であったら、それはただのオナニーに過ぎない。「これぼくのこれぼくの」と駄々をこねるクソガキと同じである。

違う。違うのだ。ことここにいたっては、ぼく、と書いているから、ぼくがいるのだ。ことここにいたっては、ぼく、というのは、限りなくあなたに近い意味なのだ。

このコペルニクスの転回的な価値観の変革を、芸術と呼ぶ。だからぼくは芸術家を自称している。
ぼくの人生を芸術に捧げる、と決め、初めて、ぼく、という存在が許される。この言葉が指すぼく、というのは、自分の父と、自分の母から生まれたろくでなしのスロッターではない。

人類の英知、芸術を司る神たち(ムーサイ)と、少しばかりの想像力、そして酸いと甘いと酔っ払いの経験の混交が、ぼく、という存在なのである。
歴史のラストピースとしてのぼくではなく、連綿たる歴史における、橋渡し的なぼく。そしてその存在、仮初の器である「ぼく」という存在が語る言葉、それが、文体である。

わかりやすい説明でしたね。

わかりにくい?
そう。たしかに、文才のないぼくの文章はわかりにくい。のかもしれない。なればこそ、文体の変化、文体の強化が求められるのである。

わかりやすい話をしよう。

文体とは、歌手にとっての歌い方である。ピッチャーの投げ方であり、バッターの打ち方であり、ランナーにとっての走り方である。
サザンを聴くと桑田みたいに歌いたくなる。バッティングセンターに行くとイチローのあるいは松井のマネをしたくなる。そんなぼくはとかく読んだ本の影響を受けてしまう。
ただ、これはぼくだけの問題ではなく、大江健三郎ですら、そう言っている。
人間の学習方法の一はまねぶ、であるからだ。これは全生物的な習性だ。影響を受けてしまうのはどうしようもない。問題は、その後、である。

「国境の長いトンネルを抜けると、そこは雪国であった」

言わずと知れた川端康成の「雪国」の冒頭であるが、ここで言われていることは、「群馬と新潟の県境にある山を(電車で)越えると、雪が降っていた」ということである。

しかし「雪国」という小説において、この文章以外の正解はない。

「国境の長いトンネルを抜けると、雪国マイタケの工場があった」でもダメだし、「トンネルの向こうは不思議の国でした」でもダメなのだ。
「雪国」の冒頭はこれ以外の文章はありえない。そこまで行ってはじめて文体というのは完成する。つまり、文体の完成とは、他者の評価でしかないということだ。

読めば読むほどわけがわからなくなってくる、とお思いのみなさん、そして、書けば書くほどわけがわからなくなってきた、というぼく。朗報である。具体的な例を挙げていこうじゃないか。

他人様の文章を切り貼りして、上から目線であれこれ言うのもいいけれど、それではあまりにも無責任な気がするので、手前味噌ではあるが、「仮説と確率のラボラトリー」の冒頭を抜き出してみる。

キミはまだ、幸運にもパチンコ屋に足を踏み入れていないのだから、それでいいじゃないかとも思うけど、一応説明はしておきたい。

これを言っているのは、コウタというおバカなスロッターである。つまり、この小説は、小説の冒頭という、ある意味小説の中で最も大切な部分で、主人公ではない人間が、スロットの仕組みの説明を(頭の中がお花畑の少女に)するという暴挙をおかしている。

コウタは夜のラブレター理論を実践に移したように、くどくどと、長々と、スロッターにとってはあたりまえの、しかし一般の人間にとってはほとんど意味のないことをぬかす。ここで大半の人間は、たぶん小説を読むのをやめるんだろうな、と思いながらもそうせざるを得なかったのは、この小説が、そういう小説であるからだ。

そういう小説? じ、じ、純文学小説、である。

物語としての小説のはじまりは、ここだ。

今日も一日が始まる。

 私は一日の中で、この時間帯が一番好きだ。

 まだ何物にも染まっていない、まっさらな状態の朝が。


私、という一人称を使っている以上、この時点で性別はわからない。ややあって「アネゴ」というタホくんのセリフでようやく性別が女性とわかる。これは今になって考えてみると、リーダビリティを無視する不親切設計だな、と思う。わざとそうしているわけではないのに目につく、それも、悪いほうに目につく部分。これを欠点という。
あばたもエクボではないが、このたどたどしい語りが、今のぼくから見ると、わりと好ましいのだけど、これは完璧に、わが子を溺愛するバカ親のそれである。なので、ここは心を鬼にして、欠点、と認める他ない。

このように、この小説があまりうまくいっていないような気がするのは、一にも二にも、文体が不完全であるからだ。
読めるにはそこそこ読める。でも、後に響くものがあまりない。これが作者であるぼくのこの小説の偽らざる評価である。
まさに「仮説と確率のラボラトリー」の域を出ていないのだ。本来、その実験室の扉を開けて外に抜け出して、実際の世界を侵食しなければいけないというのに。

良い部分は、御手洗優、という主人公の名前くらいだ。この名前の素晴らしさは、言うまでもなく、パチ屋の唯一無二のセールスポイントであるトイレに向けて、ぼくは言っている(皮肉だ)。
タホは言うまでもなく、北斗の拳の「tough boy」から。コウタは忘れた。

ともかく、この小説において、ぼくは女性視点で小説を書くという試みをしている。そう、一番手っ取り早い文体訓練は、異性の目線で世界を語ることだと思う。

元来、やまと言葉というのは、女性のものだった。なぜなら「やまと言葉」を表現する書き言葉である仮名(今で言うひらがな)は女性のものであり、女手とも言われた。男性はきっちりかっちり漢語で文章を書いていたのだ。これをKKK公文と言う(わけがない)。
それを覆したのが紀貫之で、言わずとしれた「土佐日記」である。

男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり

男が記す日記っちゅうものを、女の私もしてみようじゃないか、という宣言ではじまるこの文章は、確実に、日本文学史に残る文体模索のひとつの結晶である。

男である紀貫之が男のふりをした女を装って文章を書くというエポック。
現代のほとんどの作家は、男性であれ、女性であれ、女性文体、男性文体を使い分けているし、文体といえば、宮崎駿の文体(表現方法)のベースは明らかに女性だし、今回の記事の冒頭の絵画を描いたジョン・エヴァレット・ミレイさんも男性である。

とはいえ、一部の人間はそのような試みを否定する傾向にある。女性文体の文章に対して「おまえおっさんだろ」と揶揄する声。
が、男性文体の文章に対し、「おまえおばさんだろ」という揶揄をはあまり聞かない。というかぼくは聞いたことがない。何でだろうか。
つうかさ、書いている人間なんてどうでもよくね? 目に映る文章こそが重要じゃね? と思ってしまうのだけど、そうでもないのかな。ともあれ、文句を言いたくなったらこの言葉を思い出してほしい。「ネカマの文句は紀貫之に言え」と。

何の話だっけか。ああ、文体だ。

どんなに服装に頓着しない人間でも、必ず服を着て外出する。なぜなら素っ裸で歩いていたら、警察に捕まってしまうからだ。というわけで、ファッションセンスがあろうとなかろうと、皆、服を着る。
同じように、文才は一般的な人間に備わっているアビリティではないけれど、文体というのは必ず誰にでもある。どんな服を着ていても、それは文体である。人真似というのも、文体のひとつである。どのような形であれ文章を書けば、それは文体なのだ。

桑田ケイスケはボブ・ディランをはじめとして何人ものミュージシャンに多大な影響を受けている。
村上春樹だってカート・ヴォネガット、リチャード・ブローディガンなどアメリカ文学に多大な影響を受けている。
ぼくはそんな彼らに多大な影響を受けている。

インプリンティング、すりこみ現象は生物にとってどうしようもない初期設定みたいなものだ。真似したくなるのもそのひとつ。そのうえで、初期設定をアップデートする、影響を受けた人間を乗り越える試みを、努力と言う。
人は何者かに選ばれるのではない。そんな考えは甘えに過ぎない。抜きん出た人間だけが、選ばれし者を名乗れるだけのこと。ぼくは後に、歴史に残る文体を書くことになる人間である。と、信じている。

閑話休題

くどく長くわかりにくい文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。

次回の「小説について」では、小説を書く際に必要不可欠な設計図、「構想」について、「立派なものであれ、とるに足らぬものであれ、どんな芸術作品でも、微細な所まで、万事、構想次第なのだ」というゲーテの言葉を軸に語ってみたいと思います。

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