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知らないホールにふらっと入って、ふらっと知らない台に座り、打ってみて、万枚出た。二十万円勝った。
これはスロットで生活を営む人にとって、ほとんど意味のないお金である。
それがどんな大金であったとしても、そのお金は未来にはつながらないからだ。

たとえば1/3~1/5程度で勝ち、かつ、自分の使った金額のうち、数%程度のお金をパチンコ屋に徴収される台と、1/3程度の確率で勝ち、かつ、自分の使った金額のうち、数%程度が余計に戻ってくる台を同じ時間打ったとしたら、一年間でけっこうな差が生まれる。毎日通ったとしたら、数百万円から一千万円は違ってくるのではないか。

かなり大ざっぱな数字ではあるけれど、適当打ちと期待値のある台を打つ違いはそんな感じである。

そんなん(数字なんて)どうでもいい。ワタシだけは(オレだけは)違う。だって何か勝てる気がする。
スロットを打って恒常的に負ける人は、そんな風に己のヒキを過信していることが多い。が、ヒキだけで勝てる人は1%もいないのではないか。
ぼくが思うに、ヒキなどというものはないのである。
が、実際にはある。少なくともあるように見える。それは、人生が有限だから、扱われる確率が天文学的であるから、だ。
数字が大きくなればなるほど、個人差が生まれるのは必定。たとえば「宝くじ」のワナは、必ず当たりが出る、ということだ。が、それをヒキで攻略するのはムリがある。数百万人にひとり生まれる天才のようなもの、数百年に一度訪れる天災のようなもの。それは人知を、人間の能力を限界を超えた領域の話である。

というわけで、ヒキがある、ヒキがない。または、持ってる、持ってない、という話には意味がない。
勝った人間だけが、達成した人間だけが、それを言うことをゆるされるだけの話である。勝てば官軍、負ければ賊軍。弱肉強食。犬が西向きゃ尾は東、という話。


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週刊我評第四十週「スロットを打って生活するということ」

先日、「おまえまだそんなこと(スロット)してんの?」と言われた。
昔一緒にスロットを打っていた人間に、である。
「ぐぬぬ」とは言わなかった。「おまえまだタバコやめてへんの?」とぼくは返した。
「おまえやめたんやったっけ?」
「ああ」と返す。
「すげー。おれも子供できたらやめよかな、とは思うけど」
彼は会社を興し、家庭を築いていた。

何であれ、とぼくは思った。人間にはやめられることと、やめられないことがある。それだけである。
時間は流れる。街も変わる。人だけが変わらないなんてことは、ない。

ぼくは旧友と酒を酌み交わしつつ、過去を想起していた。

十数年前、彼のアパートに居候していたとき、公共料金の未払いで、まず電気が止まった。ほどなくガスが止まった。水道は最後。ライフラインの順番である。
ぼくは真冬のシャワーの冷たさを、その突き刺さるような痛みを一生忘れないと思う。

彼の部屋に落ちていたコインを拾い集めて、パチ屋に設置してあったタバコ自販機(コインで買える)で買ったタバコの味を忘れないと思う(これはウソだ。味はさっぱり覚えていない)。

「明日ガメラの六打てるから来い」と言われ、新幹線の始発で大阪に向かい、7000枚を超える出玉を得たことを忘れないと思う。設定は五だったけれど。

とある店で、「全機種全台設定六というイベントがある」と聞きつけ、イベントの前日に、「ホンマに六なんやろな?」と彼が店員に問い詰め、店長を呼び、翌日、開店後、なぜかぼくのところにツカツカと歩いてきた店長が、おもむろに台を開け、設定を提示して、「ほら、ホンマに六やろ」と、どや顔で言ったことを、一生忘れない。
(打ったアステカの設定は本当に六だったが、あまりにも出すぎたからだろう、強制的に夕方に閉店させられたけど。)

「これ、アッツイでえ」と射駒タケシさんみたいなことを言っていた彼は、どこに消えてしまったのだろうか。かんしゃく持ちで、2リール小役ハズレ形のアツい出目が出現、最終リールで小役が揃って台をどつく彼はどこに行ってしまったのだろうか?

ひとしきり飲んだ後、彼はスマホの画面ロックを外し、これ見てや、とシャメを見せてきた。
そこに映っていたのは、エウレカ2のAT中、「9999GET OVER」という画像だった。
「五号機初の万枚」と彼は言った。
「何や、おまえも打ってるやん」
「たまに、な」

時間は流れる。街も変わる。人だけが変わらないなんてことは、ない。

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