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精神と時の部屋での生活1

小説を書くと決めた時点で、ぼくは退路を断つことにした。持っていたお金をほとんど全部使ってしまったのだった。
何に。
旅行と小説と音楽に。

日本を一周しながら各地のブックオフに立ち寄り、1冊100円の本と、それから1枚250円のCDアルバムをせっせと買った。本は500冊ほど。CDは300枚くらい。しめて125000円(+消費税)ほど。
 
本は小説を中心に、CDはクラシックを。

クラシックは古びない。時代が移り変わっても。だからクラシック(古典)。
対して小説は坪内逍遥のつくった訳語であり、原語はノヴェル。新しきものという意味。

ぼくはこう思ったのだった。新しきものでなければ古典にはなりえず、古典だからこそ新しきものになりうる。ノヴェルとクラシックは同じものの裏表である、と。ぼくが目指すべきのはそこである、と。

それらを自分の中に取り込もうとした。肉体改造を試みつつ、小説を読み、音楽を聴いた。そして文章を書き綴った。書きまくった。書き散らかした。効果は不明。まったくもって、不明。

ネット環境はあったが、特に得たい情報はなかった。スポーツ以外ではテレビをつけることもなかったし、親以外と会話することもなかった。

買った本はじっくりと、年間150冊くらいのペースで読んだ。音楽は新古典主義を中心に聴いた。文章を書きながらあるいは休憩中に。
1日のほとんどの時間をかけて小説を、随筆(エッセイ)みたいなものを、読んだ本の感想などを書いた。書いて直して、直して書いて。で、30分から1時間程度運動した。

040 - コピー

精神と時の部屋での生活はそのようなものであった。
文章のための生活だった。

が、自分の書いたものが面白いかどうかがわからなかった。
何かに似ている、と思った。
そう、ダイエットと同じだった。自分がしていることの実感がわかない。しかし何事も、そこを乗り越えなければ見えない景色がある。はず。

ぼくがしがみついたのは、世界で唯一の人間になりうる可能性という幻影である。錯覚である。でも、そんな錯覚を唯一の担保にして、ぼくは文章を書いた。歴史の一部を担う小説を読み、歴史とともにあった音楽を聴き、そしてその歴史に参加するべく文章を書いた。

しかし書けば書くほど、何が良くて、何が悪いのかがわからなくなってきた。
目で見て、耳で聴いて、良い、と思う。良いものは良い、と思う。でも、自分が書いたものとなると覚束なかった。

白い部屋で、ぼくは頭をかかえた。自分がどこにいるのか。また、自分が何をしているのか。時間から置き去りにされたような感覚があった。

ひろうしていた。ぼくはひろうしていた。ぼくはとてもひろうしていた。ひろうするとぶんしょうがはかどらないのだった。

そんな時期に気づいたこと。ひらがなだけの文章はスコブル読みにくいこと。
「疲労」
この文字を見るだけで、疲れていることが伝わる。漢字ってすげえな、と思ったのもこの時期だった。漢字は記号であり、絵であり、それ単体で漫画のようなものなのだ。世界で唯一の人間などと言いながら、ぼくは先人の発明を借りなければ何もできないのだ、と気づいた。

ぼくは着実に進んでいた。ただ前後がわからなかっただけだ。
しかしどちらが前にしろ、後ろにしろ、最終的に辿りつく場所は死だ。ぼくらはその地点に向けて確実に着実に進んでいる。今この瞬間も、世界中の誰であっても。

人生は一度しかない。だからこそ、ぼくはこの白い部屋で、自分の存在を賭けて、文章を書いているのではなかったか? 

退路は断った。ぼくにはもうどこにも行く場所なんてないのだ。ここ以外にはどこにも。

世間から隔絶されたような場所で、自問自答の時間だけが流れていった。

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