IMG_5068

まどかはいかにして神になったのか? ということについて、今日は教育という観点から考えてみたいと思う。

教育というのは、固体にとっても民族にとっても、あるいは人類全体にとってみても、かなり優先順位の高い、または最優先の懸案である。

「宗教」

「道徳」

「風習または伝統」

「論理」

言葉は何でもいいが、教育の根幹にあるのは、「物事の判断基準をどこに置くか」だろう。

ネタバレというほどでもないが、「鹿目まどかという少女はいかにして神になったか?」というのが「魔法少女まどか☆マギカ」テレビ版、あるいは劇場版前編後編の内容のほとんどすべてである。もちろんぼくなんかの言葉で穢れてしまうほどアニメの構造は浅くない。それでもこの先は(ほんの少し)ネタバレ的な要素があるので、それが気になる方はここでお別れいたしましょう。

※劇場版新編「叛逆の物語」はまったくもって(強調)違う話なので、ここでは触れません。

魔法少女まどか☆マギカと言っておきながら、魔法少女サギかのごとく主人公の「まどか」は魔法少女にならない。物語が進んでも、なりそうでならない。なりそうなのに、なれない。いつも寸でのところで邪魔が入るのだ。

しかしそうも言ってられない。「まどか」が魔法少女にならなければタイトルに偽りがある。それではいかん。JAROに電話をせにゃいかん。羊頭狗肉である。というわけで、まどかさんにはどうしても魔法少女になってもらう必要がある。

で、物語の終盤近くでようやく主人公「まどか」が魔法少女になることを決意するのだが、その決意のほどをほのめかすシーンが実に教育的なのである。

簡単に言えば、物語(まどかを含むすべての環境)にとってのラスボスを前にして、まどかはある「決意」を固めるのだけれど、その前に立ちはだかるのが、まどかの家庭環境にとってのボス「母親」なのだ(父親は主夫である)。

まどかの家族は体育館(のような建物)に避難している。というのも、ラスボスは一般人の目には見えず、普通の人間にとってその存在は「台風」のような天災としてしか具現化されない(つまり感知され得ない)ものだからである。
そんないまだかつてない超ド級の天災の避難先である体育館から抜け出そうとしている娘「まどか」のことを母親が許すはずがない。

母親は言う。「待てよ」
しかし娘の意志は固い。待つつもりはない。
外は大嵐である。
母親も負けてはいない。
パチン、と娘の頬を叩く。

「ママは言ったよね」とまどかは言う。「私はいい子に育ったって。嘘もつかない。悪いこともしない」

もちろん、親子の会話なのだから、色々な枝葉を取っ払った(省略された)会話なのだろう。ただ、ふたりにとっての「いい子」の定義は、「嘘をつかないこと」「悪いことをしないこと」であり、それすなわち、母親の定義した定義であることは伝わる。

それを踏まえたうえで、まどかは言う。「今でもそう信じてくれてる? 私を正しいと思ってくれる?」と。
まどかの母親は、まどかに手を伸ばそうとする。自分の娘をまだ自分の手元に置いておきたいかのようなそぶりで。しかし、まどかの母親は、何かをあきらめたかのように、手をおろし、口を開く。
「ヘタ打ったりしないな?」
たたみかけるように言う。
「誰かの嘘に踊らされてねえな」

……この言葉は何かを想起させないだろうか? 我々に馴染み深いアレに。

そう。

ギャンブルである。


「ヘタを打つ(打たない)」
「誰かの嘘に踊る(踊らされない)」

これらはどう考えても博打の概念である。おそらくまどかの母の考える大人の定義とは、言い方を変えればギャンブルをする資格のことなのだ。

「嘘をつかないこと」
「悪いことをしないこと」
これは要するに、そのうえで正攻法で勝て、ということだ。うーん、我々ギャンブラーも納得の教育である。

普通に考えて、だ。外は大嵐なのだ。堅牢な建物から出て行くということは、ほとんど自殺と同義である。どう考えても浮上する見込みのない会社の株を買うようなものだ。ハルウララの馬券を買うようなものだ。
しかしまどかの母親にとって、娘が自身の庇護から巣立っていくことの手向けの言葉がこれなのだ。

「ヘタ打ったりしないな?」
「誰かの嘘に踊らされてねえな?」

そして、まどかの「うん」という言葉で、まどかの母親はまどかの肩を押す。プッシュ、するのである。
普通の親はこんなことできない。
 
何度もくりかえすが、外に待つのは街一つ、文明一つ滅びかねないほどの大嵐なのだ。それでもまどかは母の手に送り出され、外に出る。そして神になるのである。

物語のためにはしょうがないかもしれないが、この決断はひとりの人間としてどうなんだ? と思う。そりゃ、観客の目線からしたら、外で戦っている「ほむら」を助けにいってほしい。

何でこんな話をしているかというと、映画館に行ったとき、けっこう親子連れが多かったんですよね。

ほとんどの人間は反抗期を迎えるわけで、そのとき、かつてこの映画(物語)を一緒に見た母子はどのような衝突があるのかな、と想像しないわけにはいかなかった。
この物語をすんなりと受け入れておいて、自分の娘には「許さん」、「ダメ。ゼッタイ」って言うんだろうな。ダブルスタンダードだな。と、まったく他人事ながら、そんなことを考えてしまった。

そのような意味で、神を育てた母親はすごい教育を、そしてすごい決断ができるものだ、と、物語ながら、感心してしまった次第であります。

明日は少し焦点を変えて魔法少女の犠牲から見るエンターテイメント論を書きます。お暇なら来てよね!

 ブログランキング・にほんブログ村へ
人気ブログランキングへ