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その昔、酒場で出会ったおっさんと三島由紀夫について語り合ったことがあった。
何が好きだ、あれが好きだ、あれはどうなのだ、あれはああなのだ、と、ひとしきり文学談義に花を咲かせた後、彼は言った。「なぜ、三島ほどの才能を持ってしても、自衛隊員の心を動かすことができなかったのか」と。

「たぶん」とぼくは言った。「才能の種類が違うんだよ」と。

会話をしていると、時々こういうブレイクスルーが生まれる。 ぼくはそんなことを今まで一度だって考えたことがなかった。でも、おっさんの言った「三島の才能」という言葉と、「心を動かすことができなかった」というネガティブな言葉が、ぼくの中で有機的に結びつき、「才能の種類が違う」という言葉になってぼくの口から出てきたのだ。

実際、プロセスが違う。

言葉という音声(情報)は、耳を通って脳に送られる。それは視覚を通して脳に送られる文章(情報)とは、微妙に、というか、まったく異なるものである。


口語は、聴覚から入ってダイレクトに脳に送られるのに対し、文章というものは、文字を視覚認識した後、脳内で音声化され、知覚される。


太古、良き語り部は、良き話し手である必要があった。情報を記録する術がなかったからだ。

当然、話す能力に欠けた語り部は、人の心を掴むことができなかった。単純な話であっても、声の質だけで良い物語に聞こえる場合があっただろうし、逆に、素晴らしい物語だとしても、話術がなければ、人は話を聞かなかっただろう。


文章を記録することで生まれた乖離は、カテゴリーを生み、それぞれに進化を遂げていった。

レオナルド・ダヴィンチのような天才でもない限り、傾向進化に向かう方が合理的なことは言うまでもない。話し手には話し手の能力があり、書き手には書き手の能力があるのだ。


文語と口語の認知プロセスの違いを、表現者は強く意識すべきなのだと思う。

強い文章を読むと気持ちが奮い立たされることがあるということと、強い言葉を聞くと気持ちが萎えることがあるということ。
 日常的に文章を書いているとはいえ、ぼくの話術はからきしである。

でも、特に不自由はしていない。言いたいことがうまく伝わらないからこそ、会話というものは(特に酒の席での会話というものは)、楽しかったりするのだ。

「君は三島が嫌いなのか」とおっさんは言う。
「いや、むしろオレは十代の頃、三島の生まれ変わりじゃないかと思ったことがある」とぼくは言い返す。
「ふは。人間そういう時期があるもんだ」とおっさんは笑った。
ぼくは言う。「 たしかに三島には文章の才能があった。もしかしたら、日本が誕生して以来、一番かもしれない才能が」
「ふむ」とおっさんはうなずく。「だが、三島は優れた戯曲を幾つも残している」

「うん。昔の歌舞伎座で三島の『鰯売恋曳網』を見たことがあるけど、今まで見た歌舞伎の中で一番面白かった。でも、その才能は、文語での、あるいは、物語の形式の中でのこと。芝居のセリフと、リアルな人間の会話は、やっぱ違いますよね」

「君、あれだね。最近の人間にしては珍しく話がわかるね」
「オレを最近の人間って言うってことは、おっさんはオールドタイプなんだね」酔ったぼくはムテキングである。
「いや、ニュータイプだ」とおっさんも負けずに言い返す。
「なんだそれ笑」
「ガンダムもいける?」
「まあ、ダブルゼータの途中までだけど」
「じゃあゼータは見たんだね」
「見た」
「逆シャアは?」
「見た」
どこにも着地点の見えないクソみたいな酔っ払いの会話である。 だが、会話している本人たちは楽しいのである。
スジもオチもない、前後の脈略だってあやしい会話が、楽しい。
が、文章はそうではいけない。文脈のない言葉を連ねてはいけない。

「 リンゴ、ゴリラ、ラッパ、パンダ」というのは、しりとりだから通用するが、
「apple,gorilla,trumpet,panda」 では、何のこっちゃわからない。

芸術作品にしろ、学術論文にしろ、文章には「時制」という縛りがある。

1、2、3、4、5、6、7、8、9、10という順番が何よりも大切なのだ。

対して、感情はそうではない。
「ねみいなあ」と思った次の瞬間には、「うわっ、あの子かわいくね?」とか思っている(おっさんはいやですね)。

結局おっさんとの会話はアニメから政治、果ては宗教の話まで行って、何となくお開きになった。名前も聞いていないし、連絡先を聞いたわけでもない。もう二度と会うこともないだろう。 
でも、記憶には残るのだ。 たぶんずっと。


 散るをいとふ Storm winds at night blow

 世にも人にも The message that fall before

 さきがけて  The world and before men

 散るこそ花と By whom falling is dreaded

 吹く小夜嵐  Is the mark of a flower.
 

※英訳はドナルド・キーン
 

三島が短歌を詠むのは、十七歳以来だったという。そしてこの文章が、作品としての氏の絶筆となった。

11月25日 今日は三島由紀夫の命日である。合掌。 


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