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ずいぶん前に「劇場版まどか☆マギカ新編 叛逆の物語」のブルーレイを買っていたのだけど、手付かずのまま放置されていた。

ぴょろり論を書くにあたって、アニメ「バジリスク」と原作小説「甲賀忍法帖」を連続で見て、それで思い当たったのが「魔法少女まどか☆マギカ」のことで、そしてぼくは今エコトーフのようにスロット省エネモードなので時間が少しある。おまけにお盆休みである。ということで、いい機会なので映画三作を一気に見ることにした。

今回はぴょろり論のような、どこかに隙間を見つけて「仮説」をはめこんで、何かしらの「結論」を出す、という長々とした文章にはならないと思うので(たぶん)、お付き合いいただきたい。

物語の核になっているものは何か、ということをつらつら考えていくと、エンターテイメントの場合、「犠牲」というキーワードが浮かんでくる。

これは何も「まどマギ」だけの話ではない。それはエンターテイメントの基本が「ハレ」にあるからである。

「ハレ」というのは、「晴れ着」「晴れの日」「晴れ舞台」のハレであり、ざっくり言えば非日常ということであり、対義語は「ケ」、すなわち日常である。

「ハレ」と「ケ」という言葉は日本独自のものだろうが、 日常と非日常という概念の往復が、世界中の人間にとっての生活(宗教的生活)の基本となっているのは間違いなく、世界中で祭りのない宗教または共同体は(たぶん)存在せず、そして往々にして、非日常の極みである「祭り」には、何かしらの犠牲が用意されるのが、常である。

古くは神に感謝をささげるために乙女をささげたり、農作物を捧げたり、大切な家畜を捧げたり。あるい相撲が神事だったのもそうだろう。

祭りの本質には人間の残虐性があり、そしてそれは、社会性を尊重しなければいけない日常への反動でもある。
人間の社会性を一時的に反転させてしまう祭りに人々が我を忘れて没頭するのもしょうがないことなのだ。
人間が変わっていない以上、現代においてもそれは変わらない。
たとえばオリンピックやワールドカップには必ず敗者が生まれる。
たとえば「誰かの不用意な発言や行動」がインターネットで拡散されると、お祭り騒ぎになる。

「社会性」という無理難題を強いられている人間存在を解き放つ「イベント」が用意されることは、ある種ガス抜きの要素もあり、一概に悪とは言えない。
そして「物語」もそのひとつなのだ。

「本当は残酷な~童話」と言ったりするけれど、残酷なのは童話ではなく、我々の本性である。
その我々のどうしようもない残虐性を、ぼくらに代わって天膳やキュウべぇが代行してくれる。伊賀忍と甲賀忍が殺しあってくれる。あるいは、魔法少女と魔女が殺しあってくれている。
それを見て一喜一憂するぼくの業は深い。

いや、ぼくだけではない。「カワイイ」という言葉に隠された「他者を見下す視線」という娯楽。幼児体型がかわいい、舌足らずがかわいい、訛りがかわいい、肉がついているのがかわいい、髪が薄いのがかわいい、幼いがかわいい、老いがかわいい、etc.
しかしその「カワイさ」を感じる心の根幹にあるのは「安心」なのだ。

そう、尊い犠牲を見て頬を伝う涙は「安心」の証拠なのである。ぼくたちがぬくぬくと生きている、ぬるま湯のような場所から見下ろしている証拠の物質なのだ。

ぼくが純文学小説を書いているのは(たぶん)その反動である。アンチ日常である非日常のアンチ。ぼくがパチ屋を日常的な空間にしているのも(たぶん)その反動である。

古来よりこの地における遊民は多分に差別をされながら、「非日常」を「日常」に変換させ、「日常」を「非日常」に変換させる術を磨いてきた。
敵の敵は味方。裏を返せば同じもの。

人生を賭けて、ぼくはそれを手に入れたい。スロットにしろ何にしろ、ぼくはギャンブルにゼンツッパはしない。けれど小説を書くという非日常的行為にすべてを捧げる。
ブンガクにゼンツッパ。
わけがわからないよ、と言われるだろうけれど。

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