仮説と確率のラボラトリー

まえがき


精神と時の部屋での生活1
精神と時の部屋での生活2
精神と時の部屋での生活3
精神と時の部屋での生活4

小説を読んでいただく前に作者があれこれ言うのも何ですが、少しだけ触れさせてください。

「作品の背景について」

本作は2009年頃に書かれた小説です。
今とはパチンコ屋をめぐる状況が異なり、当時は設定狙いがまだまだ主流であり、イベントを転々と回ってしのぐプロも多くいました。
忍魂、交響詩篇エウレカセブン、バジリスク、とその後のスロットのゲーム性を左右するような台が登場。スロット人気再燃の機運の年でもありました。
なお、文中に出てくる「ナンゴク」とは2008年デビューの「南国育ちR2」(平和)のこと、「エヴァ」はこれまた2008年デビューの「約束の時」(ビスティ)です。

「登場人物について」

主人公は女性ですが、ぼくは男性です(何だそれ)。
ともあれ、すべての登場人物は創作であり、実際の人物、団体などとは関わりがありません。

「純文学とは何か?」

純文学という言葉はほとんど死語です。

広辞苑を引いてみると、

1、広義の文学に対して、美的情操に訴える文学、すなわち詩歌・戯曲・小説の類をいう。

2、大衆文学に対して、純粋な芸術を指向する文芸作品、殊に小説。


これは要するに、小説である時点で、純文学でもある、ということです。

この言葉は喫茶店と純喫茶のありかたに似ています。喫茶店はコーヒーを出す時点で喫茶店なわけで、殊更「純喫茶」という冠を掲げる必要がない。何より、今は「カフェ」に統一されつつあります。

コーヒーを出すことに変わりはない。でも、純喫茶のマスターと、カフェのバリスタでは、説得力が違います。
簡単に言えば、そんなダサい名前を好き好んでわざわざ使おうとする人間はいない。費用対効果の観点から、です。

でもぼくはスロッター。世の中をボトムから見上げる存在です。主流とか、時勢とか、ダサいとか、キショイとか、カスとか、うざいとか、そんなことは気にしない(ふりをする)。

というわけで、ぼくは純文学という言葉を再定義したいと思っています。
ポイントは「自意識」です。
「この後とんでもないことが!」という過剰演出があるわけでも、「ドンデン返し」があるわけでも、「殺人事件」や、「超常現象」が起きるわけでもなく、取り扱うのはただただ「自意識」の流れです。

「スロットを中心とした生活の中で、『自意識』はどこで何をしているのか?」

当然、好き嫌いはあると思います。気色が悪い、と一蹴する方もおられるでしょう。ただ、どんな人間も自意識の波をたゆたいながら生活しています。その意味では、純文学は人間存在の根本的な命題を取り扱う、普遍的な表現形態だと思うのです。

本作は、スロットで飯を食うという特異な生活を描いた小説としては、初めての純文学小説であると自負しております。稚拙な表現も多々あるとは思いますが、叱咤激励、批判、悪口、どのような感想も受け止めますので、コメントあるいはメッセージを送っていただければ幸いです。

2014.9.15 寿 


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