前々回のバジ記事
前回のバジ記事

いい加減、バジリスクから離れなくてはいけない。
ちょっとマジでそう思う。
何か日常生活で「うぬは」とか「ござらん」とか「さすれば」とか言いそうになるし(実の親に向かって、ですよ)、小説にもスロットにも支障をきたす感じがする。
というのも、半ば本気で「薬師寺天膳三世」というタイトルのパロディ小説のプロットを書こうとしている自分を発見し、これはダメだ、と思ったのだった。
ということで、今回をもってバジリスクを語り尽くしてしまおうと思う。

「バジリスクを語り尽くす」最終回はこの人の言葉から。

一族千年の永禄を約束せん!

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バジリスクに出てくる徳川家康は、そんなことを言って甲賀と伊賀を争わせる。

シャメあったかな。ああ、あった。

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が、千年先まで影響力のある人間が、甲賀対伊賀、全滅するまで戦えみたいな無茶な要求するはずがないし、そもそも世継ぎ問題で頭を痛めたりはしないだろう。

つまり、家康は嘘をついている。
 

それもそのはず、アニメでは家康と天海の密談という感じでさらっと触れただけだったが、やはり当時の武将においては、跡目相続が一番の懸案だったらしく、戦国時代の覇者となり、幕府を開いた家康といえど、小説では(けっこうなページを使って)けっこうがっつりと悩んでいる。
竹千代11歳、国千代9歳。愚鈍な兄と聡明な弟と。すでに秀忠に将軍位を譲っていたとはいえ、自分が死んだ後の徳川家を左右する人事。
家康は大いに悩んでいた。それで、苦肉の策として、伊賀対甲賀という代理戦争で雌雄を決しようとしたのだった。

 

というわけで、家康は(残った方の一族に)「これからの千年を保証しよう」と嘘をつく。

しかしその嘘に、伊賀も甲賀も乗るのである。ほとんどの忍者が嬉々として。

ぶっちゃけた話、この物語に出てくる伊賀と甲賀の忍者の力をもってすれば、当時の日本はおろか、世界征服だって簡単にできてしまう。
にもかかわらず、彼らはそんなことをしない(思いつきもしない)。ただ、怨敵を倒すためだけに、修羅の世界を生きている。

アニメにおいて、そんな世界を現出させたのは薬師寺天膳、その人である。たぶん、人ではない。首を落としても死なない、肉体をすべて燃やし尽くす以外に死なない彼は、人間とはとても言えない。

この時点で、気づかなければいけないことがある。
この話はフィクションなのだ。

何!(……今頃気づいたのか?)

コホン。

そう、この話はフィクションなのだ。

それではなぜ、ぼくは虚構の話について、現実的な時間(足掛け2~3週間)を割いて、アニメを見て、小説を読んで、ブログという場で熱心に語っているのだろう?

家康の「嘘」を嬉々として受け入れる忍者たち同様、ぼくもこの虚構世界に一喜一憂したからだ。

昔の知り合いに、字幕の映画が見れないので外国の映画は必ず吹き替えで見るという人がいた。たしか何人かいた。
また、昔の知り合いに、映画じたいにまったく興味を持てないという人もいた(映画館なんて入ったこともないと言う)。これに関しては一人しか知らない。

これはたぶん、自分と対象の間に関連付けができないことによって生まれる乖離だと思う。

ぼくは役者の演技はオリジナルの言語で見たいという気持ちがあり、それにプラスして、耳から入った情報を解析するよりも目から入ってくる文字情報を解析することを好む人間であり、どこの国の映画であれ、アニメであれ、実写であれ、当然のように字幕を選ぶのだけど、世の中には案外、ディスレクシア(失読症)という人がいるらしく、特に欧米では5~17%ほどの人間がその症状を訴えているとも言われており、実際にヨーロッパに住む知人にもいるし、割合は少ないかもしれないが、日本にもけっこうな数のディスレクシアがたぶんいて、先ほどの字幕の映画が見れない知り合いはもとより、ぼくの身内にも文章を読むことが苦手な人間がいる。

それは、文字が示す情報を意識の中でうまく再生できない、ということだ。おそらくはマッピングがうまくいっていないのだろう。

同じように、映画(あるいは物語じたい)に興味を持てないというのは、物語の登場人物と、自分という人間を関連付けて考えられないからだとぼくは思う。

断っておくが、文章を読めなかろうが、物語に没頭できなかろうが、それは優劣の問題ではなく、ただの性質である。ぼくが南米アマゾンの奥地に住む部族の言葉を喋れないのと同じであり、化粧に興味を持てないのと同じだ。
なぜぼくがそれらをできないかと言えば、関連付けることができないからだ。

しかしぼくの脳は、フィクションの世界を見ると、活発に動き出す。
何かの映画を見れば、登場人物の役になりきって映画館を出てくるタイプ(
そのせいで役者を目指したくらい)のフィクションラバーであり、物語の中のあれこれを自分と関連付けて考えるタイプのお調子者である。

文字を見れば自分とつながっていると感じ、絵を見れば自分の世界を描いていると思い、小説やマンガや映画を見ればぼくのことを語っている、と確信してしまう。一種の病気だ(と思う)。

ただ、関連付けの有無はともあれ、原理的には人間は全員が主人公である。そのような認識システムを自我と言う。それは、自己を認識するシステムが、物語そのものだからである。

ぼくは、ぼくである。昨日も今日も明日も明後日も、ぼくはぼくである。これが認識だ。が、昨日と明後日のぼくは、細胞レベルで見れば別人である。
にもかかわらず、ぼくはぼくである。今までも、たぶん、この先もずっと、死ぬまで変わらず、ぼくはぼくでありつづける。
10年前のぼくと、10年後のぼくは「ぼく」という言葉のみでつながっている。それが物語でなくて何なのだ。
人生とはネヴァーエンディングストーリーなのである。

脱線が過ぎた。バジリスクに話を戻そう。
よし。じゃあ、言います。
これはたぶん、まだ日本で誰も言っていないことだと思うので、声高に言います。

バジリスクの世界と魔法少女まどか☆マギカの世界は似てる。

は? どこが似ているんだよ? とお思いのみなさん。

端的に言います。

コイツと
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コイツ
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似てません?(朧じゃないよ。隣にいるぴょろりさんね)

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コイツと
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コイツ(どうしても朧が目に入ってしまうな)。

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コイツと

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コイツ。

何かが似ている。

そう。髪型が似ている(爆笑)。

「わけがわからないよ」とキュウべぇさんは言うかもしれないが、髪型のみならず、立ち居地と存在理由もよく似ている。

バジリスク世界の忍者に悪人はいない。肉欲や嫉妬や殺意はあっても、悪人はいない。彼ら彼女らの戦う理由は自分のために、というよりも、「里のために、愛する者のために、先祖のために」という仁義の心なのだ。

が、天膳にそれはない。いや、ないというよりも、ありすぎる。個人のレベルを超えて、宇宙を壊す勢いの、巨大すぎる自我を自分の意思とは無関係に持たされている。
で、何回殺されても、生き返る。

魔法少女たちに悪人はいない。嫉妬や寂しさや飢餓感があっても、悪人はいない。何より、魔法少女たちの魔法少女になる理由が、全員「他人のため」なのである。マミさんだけはその理由が明らかにされていないけれど、彼女の言動を見る限り、推して知るべしだろう。

が、キュウべぇにそれはない。すべての人間の感情に対し「わけがわからないよ」とのたまうだけだ。
で、何回殺されても、私が死んでも変わりはいるもの、とばかりにクローンが登場する。

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ぴょろり
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ぴょろり

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ぴょろり

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ぴょろ
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ぴょろ

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ぴょろり(ドン)
 

ぼくは何もブログ空間をムダに使って、ぴょろりには気をつけろ、ということを言いたいわけではない。

今からするのは、幾分下世話な物語論である。純粋にバジリスクや魔法少女まどか☆マギカという物語を好きな人が読んだら不快に思う可能性があるので、その点、留意していただきたい。

準備はいいですか?

では、行きます。

まずは結論を言う。物語にとって彼らは歯車である。
物語という巨大な装置を回すための、決定的に重要な、大きな歯車なのである。

言うなれば、天膳もキュウべぇも、視聴者の心をざわつかせるためだけに、ひどいことを言ったりやったりするのだ。
往年のヤンキーだったら、「おれは歯車なんかじゃねええ」と叫びたくなっちゃうくらいの扱いである。
ものすごく意地の悪い言い方をすれば、
そうしないと視聴者を効率よく物語に引き込むことができないし、感動させられないのである。

マミさんがマミらない「まどマギ」があれほどの人気を博すことはありえないし、伊賀と甲賀が共倒れしない「甲賀忍法帖」が不朽の名作になるはずがない。それはロミオとジュリエットも同じ、悲劇だからこそ、後世まで語り継がれたのである。

とか何とか言ってるぼくだって、アニメを見ている最中は「おいコラ天膳、テメー、ヤメろ。朧に手を出すな。マジ、ぶっ殺すぞ」とか思いながらハラハラ見ていたわけで、がっつり物語に引き込まれていたわけで。

この問題をさらっと提示した天才がいる。

現代における最高のストーリーテラー、富樫義博は「HUNTER×HUNTER」の中で、こんなセリフを登場人物に言わせている。

「オレたちの中に背信者
(ユダとルビがふられている)がいるぜ」と言い張る、幻影旅団という盗賊の一員ウヴォーギンに対する団長クロロの言葉。


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HUNTER×HUNTER9巻より



救いのない世界によって救われる人間がいる。誰か。ぼくたちである。
救いのない世界の住民に救いはない。が、そのことがぼくたちにとっての救いなのだ。

今回この場を借りて、ぼくはそのことに感謝をしたい。
天膳、ぼくたちを苛立たせてくれて、ありがとう。ぼくたちの感情のために死んでくれて、ありがとう。

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蛇足のコーナー


「ひとつだけお願いがあります」とFF10のヒロイン、ユウナは物語の最後(ゲームのエンディング)で言う。「いなくなってしまった人たちのこと、時々でいいから思い出してください」

いなくなってしまった人?

普通に考えたら主人公ティーダである。あたりまえだ。主人公なのだから。が、ぼくたちはそんなことを言われなくても、主人公のことを忘れたりはしない。でも、その主人公の陰に隠れて見えなくなった悪役もいるのだ。

いなくなってしまった人?

誰だっけ? そんな人もいたよな。

えーと、

シーモアさんのことかあああああああああああああ。

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あれ、この人もやっぱり……

このぴょろりがユウナとキスするときに「やめろおおおおおおおおおおおおお」と、ぼくが(当時のブラウン管のテレビに)手を伸ばそうとしたのは、ここだけの秘密にしてください。

蛇足の結論

(ヒロインにちょっかいを出す)嫌われキャラはぴょろり率が高い。

そう。憎まれたり嫌われたり恨まれるためだけに存在する登場人物が、エンターテイメントの世界には必要なのである。
つまり、ぴょろりという髪型も含めて物語の犠牲者なのである(ものすごく熱を入れて書いた文章のオチがこんなんでいいのか?)。

ま、いっか(・∀・)蛇足だし。

バジリスク語りに長々とお付き合いいただきまして、本当にありがとうございました!
ピョロリ・ド・寿先生の次回作にご期待ください。

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