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小学生の頃は、嫌な奴がいたものだ。
超絶わがままで、人の言うことをさっぱり聞かず、自分のことにしか興味を持たず、都合の悪いことが起きると泣き喚く、迷惑そのもののような少年少女が。

人間の本性が善か悪か、という議論には興味がない。その時々によって善にもなるし悪にもなるのが人間だろう。

そもそもの話、悪とは何か。

一般的に言われる悪は、ルールを破ることだろう。社会的なルールには、法律という名がついており、それを破ることを犯罪という。
これは誰に対しての悪なのだろうか。もちろん、社会に対して、である。

対して民間のルールも存在する。常識や道徳や風習や空気と呼ばれるものだ。これを破ると爪弾きにされる可能性がある。明文化こそされていないが、これはその人間の属すコミュニティ(または空気)に対する悪である。

しかし、よく言われるたとえではあるが、田舎に住んでいて、すぐに救急車が来るような状況でない状態で、身内が産気づいてしまう、あるいは、大怪我を負ってしまった場合、たとえ酒を飲んでいても、飲酒運転をすることは、社会に対する悪であっても、圧倒的に自分にとっては善であり、むしろ正義である。

ルールを破る人間が悪なのだとしたら、ルールを決める権限を持つ人間は、必ず不正を犯す。これを指して、歴史学者J・E・アクトンは「絶対的権力は絶対的に腐敗する」と言った。
「三権分立」というシステムが整えられたのはそのためだった。司法と立法と行政の相互監視システム。とまあ、これは中学校の頃に習ったとおり。そしてそれをさらに監視するのが第四の権力、マスコミ。インターネットはさながら第五の権力だろうか。

お勉強の話はさておき、ぼくの思う悪をあげみよう。

第一の悪は、未熟である。小学生の頃にいた嫌な奴、というのはこれだ。ただし、人間のデフォルトは未熟だから、それは経験しなければいけない必要悪であり、伸び代、とも言える。成長主題。これは多くの教養小説、または多くの少年マンガの主題でもある。

第二の悪は、集団心理である。集団になった途端、ひとりでは絶対にしないようなふるまいを取る人間が世の中には数多く存在する。日本の歴史ではたびたび、集団心理によるヒステリックな事件が起きている。戦争やネット炎上もその一端であると考えられる。暴走族、チーマー、ギャング、という代々のヤンキーの起こした抗争もそのあらわれであり、大学のサークルの不祥事もこれである。

第三の悪は、これも未熟な精神ゆえであり、主に大人になりきれていない大人にありがちなことであるが、酔っ払いを代表とする向精神薬による判断力の低下である。クスリによって善悪の判断ができない状態。ぼくにとって耳が痛いがしょうがない。

これらの悪行は人間にとっての初期設定みたいなもので、誰もがなる可能性をはらんでおり、ぼくが性善説にも性悪説にも興味を持てないのはそのゆえである。

ほとんどの人間は自分の利益を追求するものであるが、初対面で嫌な人間はそうそういない。一対一で嫌な人間もそうそういない。酔う前から嫌な人間もそうそういない。それは人間が社会的な動物であることの証である。

いかに甘やかされて育った人間とはいえ、中学生くらいになると、度重なる人間関係の衝突により、自我よりも集団を尊ぶメンタリティが形成され、突拍子もないほどの自我の主張は抑制が効くようになる。
そう、ほとんどの人間は自分勝手な生き物にもかかわらず、たいていのことでは自分を抑制できるのだ。
なぜか。
これこそが、人類の産み出した社会性、というものである。それも、「出る杭は打たれる」という慣用句に代表される日本の社会性は超強力であり、だからこそのシャイネスであり、接客業のクオリティの高さであり、自殺率であるとぼくは考える。


さて、それでは「薬師寺天膳」という男はどうだろう。言語道断。どこからどう見ても明確な悪人だ。

ただ、原作の薬師寺天膳は、バジリスクにおけるほどの悪人ではない。伊賀の頭目、お幻に逆らうことはなかったし、変態は変態でも、何をさしおいても「伊賀」のためにという、故郷を思う気持ちが随所に見られる、行き過ぎたペイトリオット、愛国者に過ぎない。

が、バジリスクにおいて、「薬師寺天膳」というキャラクターは、意図的な悪へのグレードアップがなされている。

伊賀と甲賀の争いが沈静化してきた時代(これはフィクション)に起きた天正伊賀の乱(これは史実)の混乱に乗じ、甲賀を装って伊賀を襲い、伊賀を装って甲賀を襲った主犯が、この男、薬師寺天膳なのだった。
結果、甲賀と伊賀の和睦はなくなった。つまり、物語の真の黒幕は彼なのである。

日本では古くから「地震、雷、火事、親父」と、自分たちではどうにもならない災害のことを言い表してきたけれど、たしかに日本の大衆文化は、天災と人災をいっしょくたにし、まつりごと(政治)や、家父長制について議論するのを避けてきた傾向にある。

だからこそ、南光坊天海が言い出した「伊賀対甲賀」の争忍という案を家康が呑み、それを唯々諾々と従った伊賀忍甲賀忍に、読者たちは疑問を抱かなかったのだろう。しかし、今の日本人は違う。

「お上の決めたことに左右される哀しき兵士たち」という、太平洋戦争に対するメタファーでもあった小説の構図を、今の人間にわかりやすいように改変したのだと思うが、しかし、薬師寺天膳の悪行の理由がいまいち判然としない。

アニメバジリスクの中で、天膳の存在理由の説明は、次のセリフのみである。

「まこと地獄と申すものがあるならば、死してこの世に生れ落ち、二百と有余年、解脱も救済も欲すること叶わぬままに、この天膳が住もうておる狭間の世こそ、まさに地獄なり」

このセリフと、異常なほど甲賀を憎む気持ちがつながらない。これではただの逆恨みではないか。

最後の決闘の際、「なぜ生きておる?」と弦之介は聞く。
「知れたこと」と天膳は返す。「うぬをこの手で討ち取るためよ」

ちょっと待てよ。
……このセリフは聞き捨てならない。
天膳の目的は甲賀を滅ぼすことではないのか?
いや、二百有余年の歳月があれば、いくらでも甲賀を滅ぼすタイミングはあったはずだ。なぜ、今なのか。なぜ今でなければいけなかったのか。
天膳にとっての二百有余年は、不死というアビリティは、弦之介を討ち取るためのものだったとでも言うのだろうか?
……が、弦之介が生まれたのは、せいぜい十数年から二十年ほど前のことである。これはいったいどういうことか?

ここで、仮説である。

バジリスクという物語は、「甲賀忍法帖」の来世邂逅ではないか。

つまり、薬師寺天膳は「魔法少女まどか☆マギカ」における暁美ほむら同様、ループ属性のある時間旅行者ではないか。

その証拠に、小説ではお堂の縁側の床(腐っていた)を誤って踏んでしまってバランスを崩すのは天膳である。天膳はそのことがきっかけで、弦之介に敗れるのだ。


天膳は闇中ながら、弦之介のひたいに血の糸のはしったのと、その影が跳躍したのをみてとったが、猛然と追いすがろうとして、廻廊のふちにはたと立ちすくんだ。
 庭は霧の沼であった。さすが、闇にものを見るに馴れた忍者も、渦まく霧の底を見わけかねて、一瞬立ちどまったが、たちまち、
「伊賀甲賀、忍法争いの勝敗ここに決まったりっ」
 絶叫して、廻廊を蹴った。
 天なり、命なり、蹴った縁の板が腐っていた! 霧の底の影に大刀をふりおろしつつ、空で名状しがたいうめきがながれたのは、それを足うらに感覚した驚愕のせいであった。体はやや横にねじれて、一足の指さきがまず地についた刹那――霧の底からたばしり昇る片手なぐりの一刀、かっと頸骨を断つ音がした。
 薬師寺天膳は、五歩あるいた。その首は皮一枚のこしダランと袋みたいに背に垂れて、首のあるべきところに、血の噴水をあげながら。

しかし、アニメではその役回りが弦之介になっている。天膳の剣に追い立てられて、弦之介は腐った床を踏んでバランスを崩し、お堂の外に出てしまう。この改変には、何らかの意図があるはずなのだ。
外にはじき出された弦之介、それを追う天膳。弦之介の身を案ずる朧。空にかかった満月が、登場人物を照らし出す。

そこで、このセリフが天膳の口から語られるのである。

まこと地獄と申すものがあるならば、死してこの世に生れ落ち、二百と有余年、解脱も救済も欲すること叶わぬままに、この天膳が住もうておる狭間の世こそ、まさに地獄なり。

解脱や救済というのは、当然死のメタファーである。

天膳はこの後、さんざん御託をならべた後、弦之介に破れ、そして、最愛の朧に見つめられながら、ようやくこの地獄から解脱する。それは救済そのものである。

小説ではこうある。

庭にめらめらといくつかの松明は油煙をあげ、その赤い火照りをうけて、薬師寺天膳は人々に抱きおこされ首はつながれて、かっと剥いた目を、こちらにむけていた。抱いた男も、両腕をとった男も、首をささえている男も、わなわなとふるえている。その背景になかば崩れた山門が夜空にうかび、まさに地獄の邏卒たちの苦行か苦役をみるような凄惨な光景であった。
 天膳は、朧をみていた。朧は、天膳をみていた。――生と死のあいだに架かる時の長さは、一瞬でもあり、永劫でもある。

しかし、ループストックのせいで(笑)、気づくと、再び伊賀忍として転生している。しかも今度はよりによって髪型が「ぴょろり」である。やり直し。その後の行動はすべてプログラムされたとおりの(誰の目にもわかる)悪行。たしかにこんな地獄があっていいのだろうか?
この仮説にのっとれば、スロット「バジリスク」シリーズにおける天膳の異常な強さの説明もできる(笑)。

そう思えば、この天膳がかわいそうでならない。一度きりの人生を憎しみに費やすほかの忍者も、一度きりの人生を恋愛にささげる朧も弦之介も、天膳からすれば「知れたこと」なのである。彼は無限のくりかえしの地獄の中にいるのだから。

「甲賀への憎しみは模糊たる妄信となり、いつしか薄れはじめておった。己で痛い目に合うたことのない者が増えたでのお」
中略
「たばかったのではない、憎むべき相手を忘れぬようはからったのじゃ」
弦之介と朧が、黒幕が天膳だったことを知るこのセリフも、違う意味を持って迫ってくる。そもそも自分で言ってしまっている。伊賀の甲賀への憎しみは模糊たる妄信、つまり迷信みたいなものであると。それを知りながら、天膳はすべての読者、観客を敵に回すアンチヒーローとしての行動をとらなければいけない。彼がいなければ、物語が成立しないから。アニメを見る人がいる限り、何度でもよみがえり、そして、倒される。げに哀しき男よ。薬師寺天膳。

世の中の「悪」は、ほとんどすべて自己都合である。「善」もまたしかり。しかし、薬師寺天膳の悪は、自己都合ではない。物語の都合である。
薬師寺天膳がいなければ、バジリスクははじまらないし、動き出さない。我々の目を潤ますこともない。

今宵の酒は、物語というシステムの犠牲者、虚無と絶望の無限地獄にいる薬師寺天膳にささげたいと思う。献杯。

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