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汝ら、この門をくぐる者は一切の希望を棄てよ

その門にはそう書いてある。ダンテの書いた「神曲」地獄篇に出てくる地獄の入り口である。


先週、時事ネタに(たぶん初めて)挑戦してみた。

「今年になって『偽造、捏造』というニュースが世間を賑わしたけれど、そんなことを言ったら小説家はどうなってしまうのか?」というのが、その内容だったのだけど、ぼくはそもそも、すべての行動はギャンブルである、という認識を持って(持つようにして)生きている。

ギャンブルとは「リスク」を取り、「リターン」を得ようとする行動、と定義できると思う。その際、憂慮すべき最大のリスクは「死」であり、リターンは「生」に関わる何か。ほとんどの場合「お金」である。

お金とは生のクオリティを左右するものであり、生の担保であり、(匿名の)生の代行者である。

ともあれ、ギャンブルは構造的に「死」を内包している。
……何かに似ていないだろうか?
そう、人間の生によく似ている。
死を内包しつつも生を獲得するために四苦八苦する。それは人生とほぼ同義である。

すべての行動がギャンブルであるならば、情報の取捨選択はすべて自己責任。それがルール。

地獄の門ではないけれど、
「この門をくぐる者は一切の希望的観測を捨てよ」というのが、パチンコ屋に入る際の鉄則であり、パチンコやスロットだけでなく、おそらくすべてのギャンブルに通用する文言だろう。

騙された、というのは、ギャンブラーが口にしていいセリフではない。そんなつもりじゃなかった、というのもしかり。
もちろん、心情というのはある。
特に日本にはお涙頂戴の話に弱い伝統がある。あるにはあるが、それとギャンブルは別の話だ。

美談は泣きながら疑うことを誓う

とは、その文化に待ったをかける、谷川俊太郎の珠玉の言葉だった。


スロハイのまちゃさんが「僕すらも信じるな」というようなことをブログで書いているけれど、そのことでもある。ギャンブラーである以上、「騙された」ツケは必ず自分で払わなければいけないのだ。

パチンコ屋に入ってお金をコインサンドに入れるということは、そのことに「合意」した証拠なのだ。その先に何が待っていても、自己責任である。責任を誰かに転嫁しても、お金はもう戻ってこないのだ。

企業が何かしらの不祥事をおかした際、日本ではほとんど必ず謝罪会見というのが用意される。

「世間をお騒がせしてしまい、まことに申し訳ありませんでした」というテンプレ的なあれである。

ぼくはそんな謝罪は受け入れない。というか、必要としていない。

仮にその企業が加害者なのだとしたら、きっちりと被害者に補償すべき問題であり、たしかに世間を騒がす原因をつくったかもしれないが、それは世間が勝手に騒いでいるだけである。世間に謝る時間とお金があるのなら、それを他のことに使ったほうが断然有意義である。
謝っているポーズなどいらないし、反省しているそぶりもいらない。
そのような曖昧なお茶濁しに公共の電波が使われるのはなぜだろう? といつも思う。

中世の「市中引き回し」すなわち公開処刑と同じではないか。

「あー、世間騒がされたわあ」と怒っている人を見たことがない。人間は世間ではない。普段世間のことなど気にも留めていないくせに、「世間をお騒がせしてしまい、まことに申し訳ありませんでした」という言葉とともに世間意識が働いて、「そうだ!謝れ!」となる。

これが現代人のすることだろうか?

実際問題、現代人はみんな気づいている。気づいてはいるのだが、風習を変えられない。由々しき事態であるが、これは実は、おっさん連中のみの問題とは言えないのかもしれない。

話をギャンブルに戻す。

 

スロットにおける選択肢とは、突き詰めると「押す」か「引く」しかない。

が、「押す」と「引く」では、力の使い方が違う。
前に進むことはできても、後ろに進むことは難しい。これは全人類に共通の性質だと思う。

前にある「未練」を追いかけるのと、「未練」を後ろに残して立つことを天秤にかけてみると、おわかりいただけるかと思う。ほとんどの人間(生物)は保守的なのだ。


ものすごく簡単な意識改革としては、パチンコ屋に「打ちに行く」という概念を捨ててしまうことだ。

パチンコ屋には「打つ台があるかどうか見に行く」

これだけでムダ打ちはなくなる。

ムダ打ちをなくす、というのは「押す」技術の洗練であり、次に必要なのは「引く」 技術である。


この「引く」という行動が難しい。
勝っている状態ならまだしも、負けているときに「引く」ことがなかなかできない。
これは件の謝罪会見がなくならないことがそうであり、世界中で行われてきた戦争の歴史がそうであり、世界中で行われてきたギャンブルの歴史でもそうである。死屍累々の歴史。
歴史のあるところ、教訓がある。

相場で言うロストカットすなわち損切りである。

こういう格言もある。見切り千両、損切り万両

 

優れたギャンブラーは全員そうだと思うが、「押す」ことはもちろん、「引く」ことに迷いがない。

(ギャンブラーという言葉に「ろくでなし」というイメージが含まれているため、優れたギャンブラーって、言語矛盾に見えますね笑)
 

あたりまえの話だが、引いた先に勝ちは存在しない。つまり、自分にとって不利益しかもたらさない行為を自発的に選択できる。それがなかなかできないのである。

では仮に、そのまま続けたら、どうなるのだろう?


もちろん、勝つ可能性は残されている。
けれどパチンコ屋の中では「勝ち」と「負け」では「負け」の可能性の方がはるかに高く、したがって、先に待っているのは底なし沼である。


スロットを打ったことのある人間なら誰しも、ついつい熱くなって屋上屋を重ねるがごとくに負債を重ねてしまう経験を持っていることと思う。

そのときの我々の脳の中には、「押す」以外の選択肢がない。

そうなったら最後、席から立ち上がれるのは財布が空になったときだけなのである。


引くことを知る。それだけで選択肢は二倍になり、クールダウンの時間になる。失敗を反省し、次の機会に備えられる。一石二鳥どころか、益しかない。
まさに、見切り千両、損切り万両、である。
目先の不利益を受け入れることのできる人間だけが、明日を迎えられるのだ。

敗戦がなければ日本の復興はなかった。
筋肉を破壊することなしにマッチョへの道はない。
成長期には成長痛に悩まされるように、改革とは、痛みを受け入れるということなのだ。
ただ、それなしにもつれきった現状の問題を解決することはできない。

話を一番最初に戻す。

騙された、というのは、信頼しきっているからだ。ではなぜ、信頼してしまうのだろうか?
考えるのがめんどくさいからである。
人間はとかく自分に甘い生き物である。ただし、責任を自分で取れない限り、ギャンブルの土俵には立てない。

 「希望とは一般に信じられていることとは反対で、あきらめにも等しいものである。そして、生きることは、あきらめないことである」アルベール・カミュ

 

他人に騙されたと嘆く前に、自分に騙されてはいけない。


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