DVC00338 - コピー

疲労骨折という言葉があるが、とらえどころのない精神というのも、案外骨のような物質的なイメージでとらえられるのではないか。


精神が疲弊すると、決断の質が下がる。決断の質が下がれば、当然、結果の質も下がっていく。これが世に言う負の連鎖の正体だとぼくは思う。

キーワードは、「不運」である。

ソウルジェムをもらった初日のごとく、人間、まっさらな気持ちでものごとに取り組んでいるときは、問題があまり起きないものだ。

ピッチャーなら自分の自信のある球を思い切り投げ込めばいいし、今現在のスロットでたとえれば、優先順位の順番に打っていくだけでいい。実に簡単である。

が、どこかで「不運」が入り込む。

たとえば偶然タイミングが合ってしまっただけの非力なバッターに痛打される。それがきっかけで試合が崩れることは往々にしてある。
たとえば勝つ確率が高いギャンブルでハズす。ハズす。精神は徐々に徐々に削られていく。
やせ細った精神は、視野を狭め、筋肉を収縮させ、やる気をくじかせる。

初代北斗を打っていて、レインボーオーラ時に2連続で単発だったことがある。それは1台で連続したわけではない。数日のスパンがあり、あくまでレインボーオーラが連続で単発だっただけである。
それは単に1割を連続で引いただけのことで、100回に1回は訪れる不運である。それなのに、「もう何を引いても続く気がしない」という気持ちになってしまう。
次に66%のATを引いて、単発で終わる。
すり減った精神は、自虐的に、かつ卑屈にこうつぶやく。「ほら、やっぱり」
冷静に考えれば、それとこれとは別なのだ。継続率66%のものが単発で終わるのと、継続率9割が単発で終わるのは全然違う。でも、ガリッガリの精神は、そういうディテールから目を背けてしまう。
続く気がしない、という気持ちは視野を狭め、筋肉を収縮させ、やる気をくじかせる。
そのときおかしてしまったミスがある。
北斗のシマで設定6確定の札の刺さった台(当時はそういうことがよくあった)が空いて、ぼくのいる位置からなら造作もなく取れたはずなのに、身体の反応が遅れ、別の人間に取られてしまったのだ(ちなみにそのときのぼくは設定4を打っていた)。
そのことで自分を責め、さらに精神は弱ってしまった。どうしようもない過去である。


これを解消する手立てがある。
「どんなときも同じ精神で望めばいい」
言葉にすると実に簡単な、ただそれだけのことである。
田中theマーくんやダルビッシュを見ていると、もともとの引き出しが多い、という特質もあるが、ダメなとき、不運なときに「キリカエル」術に長けている、と感じる。


よく言われる言葉に「ターニングポイント」というものがあるが、ぼくはひとつの決断にすべてを賭けることや、ひとつの決断にすべての原因をかぶせることはある種の甘えだと思う。

ピッチャーが自信を持って投げられなくなるのも、スロッターのフットワークが重くなるのも、最初からそのプレイヤーに内包されている精神の性質なのだ。その根本をなおさない限り、ターニングポイントなどという聞こえのいい言葉で自分の性質を(そして試合の性質を)糊塗するのは建設的な行為ではない。

敬愛する古谷実に「僕といっしょ」という素晴らしい中篇マンガがあるが、その中でホームレス中学生と自殺未遂をしたOLが、「もしここに人生をやり直せるボタンがあったら押すかどうか」という議論をファミレスでかわすという回があった。

チュウニ病的な議論の腰を折るようだけど、身も蓋もない話、そのボタンを押したところで人格が変わるわけではないのだ。つまり、リセットボタンを押したところで、その後、同じような状況に確実に追い込まれる。リセットボタンを何回も押すという権利を与えられていない限り。

折れがちな精神にとっては、「リセットボタン」なんかよりも、「不幸が訪れないボタン」というボタンこそ押すべきだ。が、そんなボタンがあるはずはない。

人生は決断の連続であり、すべての決断が有機的にからみあい、もつれあったものが人生である。たったひとつの決断を取り上げてみて、それですべてが好転したり、また、逆に暗転したりはしないのだ。たぶん。

ではどうして人間はひとつの原因に集約しようとするのか。

めんどくさいからである。

古谷実の作品においては、「めんどくせえ」というのがひとつのテーマになっているが、これは明らかに平和ボケあるいは飽和状態にある現代人の病理である。

それと、テレビゲームというものがいかに現代人の考えかたに影響を及ぼしているか、という証左でもあるだろう。そう、リセットボタンの存在である。

めんどくせえ、という状態になったらリセットボタンを押せばいいのだ。それはPCにおけるシャットダウンも同じである。

リセットができることによって生まれる精神のゆるみ、これは、戦国時代の武士にはありえないメンタリティであり、贅沢病である。

が、いつの時代も人生にリセットボタンはない。

あったところで、「決断の連続」という人生の本質をねじまげることはできない。

どうするか。

「いつやるか」
「今でしょ」

という東進ゼミナール講師の言葉は、デジタル世界に毒された現代人の受験において、実に的確なアドバイスだったのだな、と感じる。

そう。行動こそが、リセットボタンなのである。そしてそのボタンを常に押し続けることだけが、唯一、なりたい自分になる方法なのである。

というのが、ぼくの理想である。

が、もちろん、理想と現実の間には大きな壁が立ちはだかっている。

今やろう、という気持ちをくじくのが、自分の(折れてしまいがちな)気持ちなのだから。

ここで謝っておかなければいけないことがある。先日書いた「精神力の強さでは(我慢の男)一ノ倉聡か(書くこと賭けることの)寿」か、というのは冗談である。ぼくは精神がとびきり弱い。三井寿なんてもんじゃないくらい弱い。

人間不思議なもので、負ければ負けるだけ、スロットをしたくなる。実際打っているときは、もうこんなの打ちたくねえよ、と思いながら打っていても、ふと、1日スロットを空けてみると、何だかウズウズする。これはまさに、中毒症状である。
逆に万枚出した次の日は打ちたいな、という気持ちがわかないものである。不思議だ。

もし、今、深刻なヒキ欠乏症で悩んでいるかたがおられるとしたら、悩んでいるのはあなただけではありません、と言いたい。

されどまだ未来は決定されていない。今日負けるかどうかは今日の行動が決める。仮に未来永劫ヒキ弱が続くなら、見せてもらおうじゃないか。

ということで、ぼくは今日も向かう。どこへ。パチンコ屋へ。

社会的な後ろ盾があった4.5号機のあの頃とは違うのだ(と信じたい)。

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