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なぜ、人は何かを応援したりするのだろうか?

たぶん、神経細胞、ミラーニューロンのたまものだろう。

自己同一視、という言葉で説明もできる。

赤の他人が勝利することが嬉しい。

赤の他人が喜んでいるのを見て嬉しい。

赤の他人が敗北することが悲しい。

赤の他人が悲しむのが悲しい。

それは彼を(または彼女を)自己と同一化させているところから発生するファンタジーである。

でも、ちょっと待って欲しい。たとえばAVを見て興奮するというのは妙である。だってそれは、赤の他人の生殖行動に過ぎないのだ。その映像のどこにも自分は参加していないし、できるはずもないのだ。
どうしてそんなことが起きるのか。

それはたぶん、人間は誰しも自分を主人公だと錯覚している=人間が物語を希求する根幹のシステム(そしてそれはそのまま、自分だけは宝くじに当たるかもしれない。あるいはスロットで勝てるかもしれない、と錯覚してしまうシステム)でもあるのだけど、今日の主題ではない。ぼくの小説生活についてはこちら



日本国内ではワールドカップに対する熱狂がひと段落ついた感があるが、ワールドカップはこれからが本番である。

サッカーがなぜ、世界で最もポピュラーなスポーツなのか。

それは、人類の進化に反旗を翻す亡国の遊戯であるからだとぼくは思う。

into the wild.である。

人類は手を使うことによって進化してきた。その進化に抗って、ひとつのボールを、かつての四本から二本に減ってしまった足のみで、ゴールの中に入れようと競う。それがサッカーだ。

わかりにくいルールはオフサイドくらいのもの(バックパスとファールスローもわかりにくいが、その理由は、手を使ってはいけないサッカーにおいて、例外的に手を使うことをゆるされる状況ゆえの規則である)。

ともあれ、野球におけるインフィールドフライのような複雑なルールはない。

そして何よりも、世界中で最も経済規模の大きいスポーツである、ということ。

わかりやすいのである。


今大会、ルイス・スアレスという、(大会を追放されてしまった)超世界的なストライカーを見ていて、つくづく思ったことがある。

ストライカーなら誰であれ当たり前なのだけど、ゴール前でボールを持ったとき、彼は周りの人間を見ることよりも、ゴールを狙うことを常に優先する。そして勢い余って、相手の選手に噛み付いてしまったりする(at least three times!)。

卓越したボディバランスやゴールに対する臭覚や技術はおいておき、メンタリティだけを取り上げたとすると、日常生活を規律のもとで過ごすことは難しい感じである。

彼のような選手が日本から出てくることは、まずありえないのではないか。

勝てば官軍という言葉はあるが、勝つために本当に何でもする覚悟が日本にはあるのだろうか。

今メディアはひたすら日本の負けた原因を探っているが、そういうことではない。

野球におけるピッチャーのエゴイズムは、孤高なエゴイズムであり、それはどちらかといえば、王の持つエゴイズムに似ている。勝つも負けるも、その責任は王にある。

しかしストライカーのエゴイズムはそうではない。

サッカーというスポーツは、ゴールキーパーからフォワードまで11人の選手がいて、その11人の選手がパスを交換していく中で相手ゴールに迫っていくゲームであり、その仲間がつないでくれたボールを、ただ自分の利益のみと心得てシュートを打つ人間が、ストライカーと呼ばれるのである。

それは王ではない。言葉は悪いがむしろ盗人的な仕事である。

シュートを外して落ち込む人間はストライカーにはなれない。シュートを外すかも、という疑念に囚われる人間もストライカーにはなれない。

仲間の思いを踏みにじることを厭わない人間だけが、真のストライカーになれるのだ。

あるいは、クリスティアーノ・ロナウドやメッシのような、日本人離れした(笑)、超人であるか。
それは日本人選手が比較になる対象ではもはやない。身体能力が違いすぎるからだ。筋肉量、跳躍力、ボディバランス、etc.
ズラタン・イブラヒモビッチもそうだが、世界最高峰のリーグの中で一試合に一点レベルで点を取れる選手は、どこか向こう側に行ってしまっているような印象を、ぼくは受ける。

この話はむなしくなってくるのでやめよう。

閑話休題。

サッカー。そのゲームの本質は、洗練とは程遠い、野性や本能に根ざした、圧倒的に血なまぐさいものである。

そのゲームのせいで国と国が戦争になったり、また、国と国の戦争がやむゲームが他にあるだろうか? 

そしてワールドカップとは、そんなサッカーの世界において、どんなものよりも尊いとされるトロフィーなのである。

今回のワールドカップで特に感じるのは、ホームタウンディシジョンがいかに大きいかということ。

イタリアに行ってみて思ったことは、それこそ四六時中サッカーの番組がテレビでやっている。そのイタリアですら(国内リーグが一時の精彩を欠いているのも大きいが)、一次リーグで敗退する大会なのだ。

のみならず、去年のバロンドール、クリロナ有するポルトガルが、国内リーグのレベルでは世界1、2を争うイングランドが、一次リーグで敗退している。

アジアのチームはすべて最下位で姿を消した。反してアメリカ大陸のチームはエクアドルとホンジュラス以外すべて予選リーグを突破した。

実際問題、あのコロンビアだってワールドカップに出るのは六回目であり、最高成績もベスト16。そう、日本とほとんど変わらないのだ。

ではその実力は? 誰の目にも明らかである。サッカーが球技の中で最も番狂わせの起こりやすいゲームであることを差っぴいたとしても、である。

本気で勝ちたかったら、ワールドカップを開催する土地に練習拠点を移す、くらいのことをしなければいけなかったし、セル爺が言っていたように、招待されたコパアメリカは万難を排して出場すべきだった(もちろん状況が許さなかったのは重々承知であるけれど)。

試合終了後にゴミ拾いをするメンタリティとは明らかに背反しているが、マリーシアと呼ばれる勝つためのズルを、心から肯定しなければならない。

その意味で、日本代表に関わる人たちは、どこまで覚悟があるのだろうか、と思う。

日本がワールドカップで優勝するための100年計画というが、その方法として最も現実的なのは、いかに複数回日本で開催できるか、というのが焦点ではないか。そして徹底的に、根回しをする。日本に有利な会場、有利な条件を考え抜き、実行する。

なぜなら、自国以外で優勝したチームは、ウルグアイ、ブラジル、(西)ドイツ、イタリア、アルゼンチン、スペイン、のみ。
これは要するにその美酒を味わう権利があるのは初期メンバー(つまり南米と西ヨーロッパの国)に限られる、ということだ。新興国に門戸が開かれているわけではない。

そこに加わる可能性が最も高いのは、自国開催くらいしか考えられない。

四年前の南アフリカ大会ではスペインがスマートなサッカーで世界一に輝いたが、それが続くわけではない。

ワールドカップを連覇したのは今までにブラジルのみ(58年スウェーデン開催62年チリ開催)。
チャンピオンは研究しつくされ、基本的に刺客に襲われ力尽きる宿命なのだ。

日本は、本当に、それを、望むのか。

本当に、勝ちに徹するだけのメンタリティを持ちたいと願うのか?

だとしたら、サイドストーリーみたいなことを延々とテレビで流すことはゼッタイにしてはいけない。お涙ちょうだい?
hahaha.
本当に勝ちたい?
戦術的なことをテレビで四六時中流し、特定の人気ポジション(中盤)の選手だけを取り上げず、すべてのポジションの選手にきちんとした評価を与え、ああ、あのファールのもらいかたうまいね、とか、あの遅延行為はグッジョブだね、という会話を(お気に入りのスウィーツを話すときのように)平然とし、エスカレートの帰結として、オウンゴールしたディフェンダーが射殺される事件が起き、出る杭を打たず、治安の悪化も厭わず、学生の過ちくらいで目くじらを立てず、盗賊集団を許容するくらいのメンタリティが本当に欲しいのか?

これからどうするのかという議論が日本中で起きている。

ただし、結果だけを見て、ああすればよかった、こうすればよかった、と言い合うことは、パチンコ屋にいる人間から言わせてもらうと、完全なるオカルトである。

過去に戻ることができない以上、事前に結果を知ることができない以上、問題は「どうしたいのか?」という哲学の部分に集約されるはずだとぼくは思う。

イタリアならまず守り、しかる後に攻める(ギリシャもそうだろう)。

ブラジルならまず攻める。

スペインならまずつなぐ。

ドイツにはいつの時代も屈強なフォワードとゴールキーパーがいる。

アルゼンチンにはいつもひとりのスターがいる。

イングランドはフィジカルを活かし、前に前に進む。


閑話休題。


ぼく個人としては、潔く散った今回のチームが嫌いではない。

遅延行為をよしとせず、あえてファールをもらいにいくことを尊ばず、ただひたすらにボールをつなぎ、引いた相手にゴールを決めきれなかった日本代表が嫌いではない。

本田はACミラン入団時の会見で、「侍に会ったことがない」と言ってイタリアの報道陣を笑わせていたが、新渡戸稲造の書いた「武士道」の精神は、若干の変節もあるが、明らかに継承されている。今回ワールドカップを見て、つくづくそう思った。

一言で言えば、それは、サッカーに向いていない洗練である。

日本代表は、世界で誰も向いていないところを向く唯一のチームであって欲しいと思うのだが、実はぼくたちは、たった一例だけ、日本的洗練をもって世界の頂点に立ったチームを知っている。

そう、2011年ドイツ大会の「なでしこジャパン」である。

ナンセンスだ、と言われるのは承知だ。

レベルが違う。フィジカルが、当たりの厳しさが、観客の目が違う。性別が違う。それは確かにそうである。

それでも理想を現実にした彼女たちの存在を忘れてはいけないと思う。

理想と現実を埋めるには行動しかなく、人々がそれを認めるには「結果を残す」しかないのである。

結果を残したチームだけが、結果を残した人間だけが、世間の人間から勝手に自己同一視されるのである。

応援する側は、かくも勝手なものなのである。




と、ここまで書いて、結果を知らずに録画しておいた「ブラジル-チリ」を見た。

……言葉が出ない。

チリから点を取ろうとすれば、やはり縦に放り込んでのフィジカル勝負(あるいはセットプレーでの得点)しか考えられない。しかし、緩慢なチームでは、チリの攻撃陣に容易に切り裂かれるだろう。
突破を許していたのはフッキくらいだったし、特にネイマールへのディフェンスは、組織で守るとは何かを雄弁に体現していた。何より延長途中で交代したメデル。彼がこの試合のMOMではないか。
チリ。すごいチームである。
地上戦で戦おうとする以上、チリの見せたあのサッカーは、日本にとっての希望である。そう思おう。

PKは時の運。とはいえ、ジュリオ・セザールの存在感と、あの状況で決めたネイマールの存在はとてつもなく大きかった。

ともあれ、決勝トーナメントは、この神聖で野蛮で、血塗られた亡国の遊戯を、純粋に、心置きなく楽しみたいと思います。

続いて「コロンビア-ウルグアイ」を見よう(結果はまだ知らないのです)。

楽しみだな。

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