興味がある人がいるかどうかはわからないけれど、現時点でほとんど唯一と思われる作家になるための方法、「文学賞」というものについて、触れてみたい。
文学賞落選までの流れを簡単にまとめると、以下のようになる。
小説を書く。
その文学賞を主催する文芸誌に書かれた応募要項にしたがって原稿を印刷し、郵送する。
およそ半年ほど待つ。
「~賞発表」という表題のついた文芸誌を見る。
自分の名前がないことを確認する。
以上。
まあ、あっさりしたものです。
時々、あなたの作品を受理しました、という葉書を送ってくれる文学賞や、メールで知らせてくれる文学賞もあるけれど、だいたいは以上のような流れで挫折を味わうことになる。
これが実に嫌な時間なのである。
ぼくはもう(一生つきあっていく覚悟があるので)、ひとつの作品が落ちたからといって、泣いたりわめいたり、自殺をほのめかしたり、誰かを傷つけたり、何かを(たとえば台を)殴ったりはしない。
文芸誌の中に自分の名前がないことを確認する。つまり、空を探す。仏教の真理のような行動の後、ふらりと電車に乗る。頃合を見て下車し、適当な宿に入る。そして山などを歩き、木々を愛で、行く川の流れをただ見つめ、めそめそし、くよくよもし、評価されなかった自分の作品の供養をし、次に書く小説の構想を待つ。
せいぜいそれくらいのものだ。
悔しさに慣れてはいけない。
しかし哀しみに潰れてもいけない。
と、思う。
じめじめした季節にじめじめしたことを書いてもしょうがないので、未来につながる今の話をしよう。 これはあくまでぼくなりの考えなので、ご了承いただきたい。
より具体的に書くと、だいたい二ヶ月に一度、原稿用紙(作家の世界の仕事量の基準はいまだに原稿用紙なのだ)に換算して百枚から三百枚ていどの小説を書き、それを数ヶ月から一年ほどかけて推敲していく。
小説を書き始めた頃は、短篇の文学賞から長篇の文学賞まで、月一ペースで手当たり次第に投稿していたが、やめた。
とにかく書く、から、くりかえしくりかえし書き直す、にシフトしたのだ。
そのうちに(文学賞を落ち続ける中で)、別に文学賞を取らなくても文学をすることって可能だよな、と思った。小説を書くことは一生続くわけだし、文学賞を取る、という目標のために小説を書いているわけではないのだし。
そのひとつが、このブログである。
ぼくにとって、小説を書くことが大事なことで、それが認められるかどうかは、また別の話である。強がりも入っているけれど、ほとんど本心である。じゃあやめろよ、と誰かに言われてやめられないのだからしょうがない。
もちろん、戦略的なことを考えないわけではない。
たとえばぼくが、とんでもない犯罪者だったとしたら、ぼくの作品はたちまち世に出るだろうな、とは思う。
でも、そんな風にして世に出たいか? 否。
作品さえ誰かに届いてくれれば、ぼくなんて世に出なくてもいい。他の職業の人が片手間で小説を書いているわけではないのだ。
それでも確率を上げる努力はせねばなるまい。
確率の問題で言えば、間違いなく長篇を対象にした文学賞の方が取りやすいと思う。そもそも原稿用紙に換算して400枚以上、文字数にしておよそ160000字を書くことができる人間じたいが少ないからだ。
わりと有名な賞だとしても、ノーマルAタイプの機種でビッグを引くくらいの確率で当選できるはず(実力は問わないこととして)。人気のある職業における就活よりも倍率が低いくらいだ。もちろん確率だけの話。
猿が適当にキーボードを叩いて、シェイクスピアの作品ができる確率はゼロではないにしろ、その作品で文学賞に受かる可能性はゼロ。同じような作品はいらないのである。
逆に確率が低いのは、100枚を目安とした文学賞である。ただ、これも多いところで数千分の一。まあ、スロットでいうプレミアみたいなものだ。
確率だけを考えると、スロットにおけるフリーズよりも引ける(気がしませんか?)。
ぼくは今までに、20~30くらいの作品を応募してきた、と思う。
でもそれってさ、たかだかスロットにおける1000円みたいなものじゃないか!
1000円でボーナスが引けるものか。
ゴールは文学賞じゃない。今、この文章を書いている瞬間である。
という感じで自分を慰めながら(励ましながら)、コツコツと続けるしかないのですね。
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