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「雪松図屏風」円山応挙

人生で最大のギャンブルは恋愛である、とぼくは書いた。喜色満面の笑みで、どや、と。


なぜ、ギャンブルに負けるとつらいのか。

なぜ、恋愛でうまくいかないとつらいのか。

それは、ひとつの死だからである。レスポンスの返って来ないもの、それらはすべて死と同義である。キーボードをタンと叩く。「キーボードをタンと叩く」。よかった。まだ、生きている、とは思わない。極めて普通の現象だとぼくは思う。しかし、これがキーボードをタンと叩き、
























無反応だったら、動揺する。

無視されるのがつらいのも、同じ理由である。
それを他人にする。それは肉体こそ伴わないが、殺傷行為である。そう思う。

今日はぼくなりに、死を定義したいと思う。死。それは打っても響かないこと、つまり、「レスポンスの不在」である、と。

ぼくたちは(少なくとも自分のことを人間と定義しているなら誰だって)、不在に耐えられない存在として、存在している。

そんなぼくらには、これから、恐ろしい未来が(ほぼ確実に)待ち受けている。

愛するものの死、友の死、大恋愛の末の破局、事業の失敗、体力の低下、まずいラーメン屋に入ってしまう、バジ絆フリーズで300枚しか出ない、設定六で憤死、エトセトラ……, etc.

何にせよ、それらは自分の死、もしくは死に限りなく近いできごとである。

本当の自分の死については、思い煩う必要はないと思う。おそらく自分の死を自分で受け止めることはできないだろうから。
オラは永遠に生きる、という幼児的な魂が少しばかり残っているけれど、それでも自分の死は無と同義である、という感覚のほうが強い。

とすれば、死というものは、「レスポンスの不在」という形でしか、体験できないのである。
死に慣れることなんてできはしない。それでも、そのことを「ある」こととして受け止めることはできる。いや、できる、はずである。
だってぼくらは知っている。ギャンブルに手を出せば、ほとんど負けるということを。
そして自分の欲しいもの、手に入れたいものというのは、確率が低いということを。

ギャンブルの定義は色々あると思うが、ぼくは森巣博の言った「合意の略奪闘争」という言葉に合意したい。
ポイントは「合意」である。

もちろん恋愛も、第一に相手との「合意」が必要だろう。一方的な恋愛は空想的であり、場合によってはハラスメント的なものである。恋愛はひとりではできないのだから。

すべての依存症、わけてもギャンブル依存の問題は、この「合意」の部分が、麻薬的あるいは催眠的、つまり半強制的なところにあるのでは、と思う。自分のお金を自分の意志でかけて、戻ってこなかったら許せない、というのは、その「合意」に合意できていない証拠であると思う。
ぼくにとって敗北の味はいまだ苦く、苦しく、合意、そして納得の境地に至らないのが実情であり、精進しなければ、と決意を新たにする所存であるが、その合意の部分を、全員が納得でき、かつ、その場に臨むとしたら、どのような種類のギャンブルであれ、精神と肉体の極限の戦い、つまり、アスリートの棲むような修羅の世界と化すだろう。
おそらくギャンブルはそこまでの修羅場ではない。合意できていない人から、合意できている人がかっぱいでいくからである。

合意の前提には、ルールがある。そして同じルールで争った場合、ルールを熟知している人とルールを把握すらしていない人では、まず前者が勝つと相場が決まっている。
後者はルールに縛られるが、前者はルールに合わせて自分を調整できるのである。

箱に入れられた二匹の虫を想像してみると、わかりやすいかと思う。片方は箱の大きさを熟知しているが、片方は知らない。当然、後者の虫は、生存の欲求そのままに、飛んだり跳ねたりしようとする。しかし、箱の形に邪魔されるのである。前者の虫は、自滅を待つだけでよい。

勝ち方などというものはない。
負け方を熟知しているかどうか。

……いや、そんなことすらどうでもいいのかもしれない。

ぼくの定義した死というのは、まったく一般的な死ではない。スロットに負けたくらいで死というのなら、パチンコ屋は巨大なトラップであり、台はキリングマシーンであり、メーカーは死の商人になってしまう。
死=「レスポンスの不在」。それはほとんどぼくの造語、つまりファンタジーである。だからテクニカルな話はやめよう。

大切なことは、ぼくが本当に大切だと思うことは、何が起きても人生は続く、ということだ。
何が起きても人生は続く。
どうして? という疑問に意味はない。
それはただ、そういうことなのだ。
ふざけんな、と言っても何の効果もない。
天に唾をはいても、顔にかかるだけで、人生は続く。
他人を傷つけても人生は続く。
自傷しても、もちろん人生は続く。
死、すなわち、レスポンスの返ってこない行為を何度重ねても、人生は続く。
フラれても、スロットに負けても、友がこの世からいなくなっても、明日になればまた日は昇る。曇っていても、台風の日でも。

ゲーテは言った。

「コントロールの効かない行為は、
 どんな種類のものであれ、 
その行き着く先は、破滅だ」 と。

この言葉はとても大切なことを言っていると思うので、何度でも使いたい。

この地では、古くからパワーはコントロールできないもの、と定めていた。相手は八百万の自然だった。地震、雷、火事、オヤジ、台風、旱魃、疫病、云々。だから、あえて壊れやすいものを壊れやすいようにつくり、それを修繕し、あるいはつくりなおし、それで脈々と保ってきた。
何を。
たぶん、空気感のようなものを。

今からおよそ800年の昔、鴨長明はこう言った。
「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と。

その頃あった川で、まだ現存している川はいくらでもある。しかし、その内容はさっぱり違う。それを見つめる人間の目も、その川の中に住む生物も。

場所は変わり、今からおよそ1330年の昔、唐代の詩人はこう言った。
「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」と。
(ねんねんさいさいはなあいにたり、さいさいねんねんひとおなじからず)
年がたっても花は似た形をしているが、それを見る人間の顔ぶれは全然違う。

逆もまた、真である(と思う)。

パチンコ屋に居る人は、どこの地域でもわりと似たような人が多い。たぶん、どこかのパチンコ屋から、違うパチンコ屋にテレポートしたとしても、違和感がないのでは、と思うくらいに似た雰囲気がある。
海外に出る。CASINOに入る。そこでも似たような人が、似たようなことを、している。

いつも居る人、同じ人、似たような機種を、似たような顔で打っている。いつも、いつまでも。

どんなことが起きても、人生は続く。


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