先日街を歩いていると、同級生に再会し(十数年振り、気づいたのが奇跡というレベルである)、立ち話もなんだし、とお茶をすることになった。

「今何してんの?」と聞かれて小ウソをついて(スロ人あるある)、適当な近況報告を交し合い、なぜか「アナと雪の女王」の話になった。
当然、ぼくは見ていない。同級生(以下、幼なじみ)は見た、めっちゃよかった、泣いた、と言う。

「あの映画って、あの雪の女王の歌にすべてがつまってる(ように感じる)から、あのPVだけでおれは大満足なんだけど」とぼくは言った。「あれだけで泣ける」
「いや、見たほうがいいよ」
「いや、いいよ」
「いや、見たほうがいいよ」
「いや、いいよ」
という不毛な会話の後で、ディズニーあるいはCGアニメの話になり、お互いの好みがさっぱり合わないことが判明した。

幼なじみが好きだと言ったのは、
「ラプンツェル」である。

奇遇なことに、ぼくが嫌いなのは、「ラプンツェル」である。

幼なじみは「モンスターズ・ユニバーシティ」も好きだと言う。

ぼくの中で「モンスターズ・ユニバーシティ」は、ちょっと人にはお勧めできない映画である(もう少しきつい言葉で言えば、あの素晴らしいモンスターズ・インクの続編が、なぜ? という映画である。スロットで言えば、初代北斗とSEの関係である)。


ブログには好きなことしか書かないと決めているが、偶然ついでに今日はその禁をおかしてみようと思う。

嫌いなものの嫌いな理由をあげることはたやすい。
だって嫌なのだ。

もちろんそれではわかりづらいので、「塔の上のラプンツェル」という映画で説明を試みたい(好きな人は申し訳ありません。名残惜しいですが、ここでお別れをいたしましょう。ネタバレが嫌な方も同様にお願いします)。


「寿が見たラプンツェル」

とある王国を統べる王と妃の娘、ラプンツェルは、生まれて間もなく魔女にラチられ、王国から遠く離れた塔に幽閉され、妙齢まで育つ。が、いかにも現代的なアニメらしく、この魔女はすべてを欲しがる昔かたぎの(笑)魔女ではない。ただ若さが欲しいのだ。
彼女は生まれたばかりの王女、つまりラプンツェルの髪の毛があれば、その若さを保つことができると知り(何じゃそりゃ)、じゃあラプンツェルをラチってしまえ、と行動に移す短絡的かつ極めて自己中心的な人物。
その魔女のために、ラプンツェルは一度も髪を切ったことがない。伸ばしっぱなし。ロング(ゲ)というレベルをはるかに超えている。
といって、ラプンツェルは不幸には全然見えない。彼女にとって魔女はちょっと冷たいくらいのお母さんだし、何よりカメレオンという親友がいる。歌を歌いながら日々の雑事をこなすさまも、あの不幸の代名詞、シンデレラとは比べるべくもない。もちろん、人道的な見地に立てば、人権を侵害した、とてつもない犯罪行為なのだ。それは間違いなく、魔女は糾弾されるべきなのだ。

しかし、そのような現代性を持ち込んでしまったことにより、観客は、というかぼくは、こう思ってしまった。こんな風に天真爛漫に育ったのならば、親の教育が悪くなかったのではないか? と。

育ての親、すなわち、魔女である。

ありのまま、生まれたままで大人になることは不可能である。ありのまま、生まれたままというのは、野獣に等しい。そのために教育があり、適切な成長を促し、時には出る杭を打つ大人の存在が必要なのだ。
子どもがまっすぐ育つには、資質もさることながら、周りの環境と、サポートする大人の存在が不可欠ではないか。
その意味で言えば、魔女の教育は、最高とは言えないものの、劣悪ではなかったと言わざるを得ない。

ここからの展開もなかなかのものなのだが、魔女がいない間に、王が住まう城(もちろんラプンツェルの生まれた城)からお宝(本来、ラプンツェルが戴冠すべきティアラ)を盗んだ若き盗賊が、王国の衛兵から追われて忍び込んでくる。
ラプンツェルは、その盗賊を自慢の髪(!)で撃退し、ティアラを取りあげ、お宝を盗賊に返す条件として、私を外に連れてって的なことを言う(魔女にばれないように、後で帰ってくるつもりだった)。
「しょうがねえ、じゃあ行くか」と外に出るふたり。

気づいた魔女は、激おこ。憤怒の表情で追いかける。熾烈なチェイス。ラプンツェルは自慢の長い髪を振り回し、アクション、アクション。最終的に、魔女は死亡。王と妃は大歓迎でラプンツェル及びイケメン盗賊を王家に迎え、めでたしめでたし。

うーん、こう書いてみると、この映画、けっこう面白いんじゃないか、と思えてくる。笑

幼なじみとの会話に戻ろう。

「まず、魔女は殺されなければいけなかったのか?」とぼくは言った。
「事故だし」と相手は言った。
「いや、明確な意志がない限り、作品はつくりえない」
「は?」
「誰かが魔女を殺すシーンを描かなければ、魔女は死なない」
「は?」
(理解されていないようだから、先に進もう、と思う)
「それから」とぼくは言った。「王家に泥棒を迎え入れて、果たしてその国民は納得するのだろうか?」
「いやいや、そこまで考えないでしょ、普通。ファンタジーだし」
「ファンタジーだからこそ、その世界に没頭できない要素は排除するべきではないか」

「てか、ラプンツェル何回見たの?」と言われた。
「一回」と答えた。
「何でそんなに覚えているの?」
「わからない」
「それって好きってことじゃないの?」
「……」

今、嫌いな理由を述べたじゃないか。どうしてそれで、ぼくがラプちゃんを好きなことになってしまうのだ!

「じゃあ、寿はディズニーだと何が好きなの?」と聞かれる。
「美女と野獣」と答える。
「いやいや、美女と野獣のほうがありえないでしょ」と言われる。

そんなことを言われると、さすがの寿も憤慨する。しかし、好きの理由をただちに明確に言うことは難しい。

「ありえるとかありえないの話をしているわけじゃない」
「アリエル? リトルマーメイドの話? はは。うける」
「違う!」
「じゃあ何の話?」

「……ガストンって悪役の頭の悪さがさあ」とぼくは言う。
「え? ただのクソヤローじゃん」と言い返される。

「まあ……」

「ベルのあの読書以外に興味のない感じがさあ」とぼくは言う。
「あんな女いないよ」

「まあ……」

「野獣が愛を知り、成長し、そして自分を取り戻す経緯がさあ……」
ぼくの言葉をさえぎり、幼なじみは言う。「野獣ったって王様じゃん。王様が何したってそもそも王様だし。だったらまだ泥棒の彼のほうが深みがあるんじゃない?」

「……」

このように、嫌い、あるいは否定的見解というのは、すべてを拒絶する、驚異的な暗黒パワーである。
それに比べて、好きのこのか細さ。

だからこそ、ぼくはブログに嫌いなことを書かないようにしていたのだ。

「ねえ……」唐突に幼なじみは何かを言った。

が、美女と野獣をどう推すかに集中していたぼくは聞き逃してしまった。「え?」

「もしかして、まだあのことを気にしてる?」

「……何が?」

「寿が悪かったわけじゃないでしょ?」

「……」


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