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先週の文章は全般的にデキがいまひとつな感じがしました。
旅行進行ということで、文章を書くことを急ぎすぎたような気もします。
やっぱり文章は毎日毎日コツコツコツコツと書いて、書き直してはまた書いて、それでやっと照準が合うような繊細なものなのでしょうね。
反省。

第百十一話「憎んだりしない。恨んだりもしない

ただ、表現上の修辞、オブラートに包まれていない分、本音がダイレクトに出ているとも言えると思います。誰かを憎んだり、誰かを恨んだりせず、生きていきたいのです。というよりも、そんな余裕がないのです。


第百十三話「何かに依存しないために
 
今読み返してみると、ずいぶん独りよがりな文章だな、と感じます。 不快に感じたかたには申し訳なく思います。かくかのごとく、旅行で考えたことは、「独りよがりの大ボラ吹き」ということがほとんどです。テンションが上がっているのと、体温が高めだからでしょうか。

ただ、毒にも薬にもならない文章を書いて、いったい誰が喜ぶのだろうか、とも思ったりします。誤解されるリスクを取ってでも、攻めた文章を書いたほうがいい、と思う自分がいたり、いやいや、誰かを傷つける可能性を負ってまで、ブログなど書く必要がない、と思う自分がいたり、揺れています。
それでも文章を書こうとする意志は止められない。我ながら、見苦しい「業」を背負ったものだと思います。

第百十五話「なぜスロブロガーはブログに飯の種を載せるのか

ただ、のぼくの本音ですね、これ。

どんなに人に嫌われたくないと思っていても、生きていくことは、誰かの領分を侵犯することでもあります。誰かの取り分をかっさらうことでもあります。その利害調整のために、場をできるだけ公平にするために、政治は存在するのでしょう。法律というのも、裁判所というのも、三権が分立していることも。

表現の自由というのはたしかにあります。けれどそれは同時に、何者かの尊厳を傷つける可能性でもあります。

たとえばひとりの作家が作品を発表して一定の評価を受けるには、今現在その席に座っている誰かを引き摺り下ろさないといけません。
アスリートは全員そうですよね。たとえばサッカーのゴールキーパーは一試合にひとりしか必要ありませんし、怪我やよっぽどの不調でもない限り、バックアップメンバーが日の目を浴びることはありません。ひとつのチームに十人も二十人も必要ありません。
誰もが試合に出たい。競争原理が選手たちの日常なのでしょう。しかしその意味では、すべての職業は、アスリートと変わることがないとも思うのです。

ぼくは醜態を晒してまで既得権益を保持しようとする政治家的な人間が大嫌いですが、ことその椅子取りゲームにおいての心情は、痛いほど理解できます。
その人もかつてはそうやって、誰かの椅子を奪ったのです。その椅子取りゲームで発展した文化もあるでしょう。

誰かを引き摺り下ろす、という気概なしに何かを目指すことなどできません。そこはきれいごとを言ってられない。
ぼくは今見える世界を破壊するために文章を書いています。言わばテロリストのようなものです。その罪深さに身震いする夜もあります。

そもそも今日書いた文章の、「ただ」の後は、すべていいわけです。勝手にほざいてろレベルの戯言です。
そんなただただ欠落だらけの筆者ですが、ぼくにも父と母がいます。
33の息子が、ほとんど外の世界とかかわりをもたずに、部屋にこもって文章を書き、パチンコ屋に入り浸っているのを知ったら嫌な顔をするものでしょうけど、父も母も、ぼくが小説を書いていることを知っています。そのうえで応援してくれています。
当の本人が言うのもなんですが、ぼくが学生だった頃の彼らを考えると、信じられません。
 
まったく自慢できることではありませんが、父の日や母の日に、ぼくは彼らに何かをしたことがありません。

彼らが死ぬまでに、何とか文章で身を立てたいと願ってはいるものの、未来はさっぱりわかりません。それでも今も未来も、ぼくがどこかで文章を書いていることは、微塵の疑いもありません。

世間がどう思うかはわかりません。でも、少なくとも、彼らを悲しませるような行動は取るまい、と思うのです。

生産性ゼロ人間として、「生れて、すみません」とは少し思いますが、ぼくが使うとしたら、「産んでくれてありがとう」という言葉しかないんですよね。

ただ、感謝。寿the親不孝者

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※「生れて、すみません」というのは、太宰治の短編、「二十世紀旗手」の副題ですが、真偽は不明ながら、寺内寿太郎という詩人の言葉を借用したとされています。