デルフトの小道「ヨハネス・フェルメール」
あっという間にもう百話。
スロットのことばかりを書いているわけではないけれど、それにしても、こんなに書くことがあるのかという驚きがある。ブログをはじめた当初、書くことがなくなってしまうことを恐れ、ストックを10本くらい用意していた。けれどもそのストックは、形を変えて使ったものもあるが、ほとんどそのまま残っているし、むしろ増えている。
楽をしているわけでもないけれど、苦労しているわけではない。ただし、スロットを打つ時間は少し減った(苦笑)。
けれども案外、書きたいことを書いているとは言えない気もする。
躊躇してしまう。自主規制してしまう。この話題を書いても誰も興味を持たないんだろうな、とか思ってしまったり。
「文学について語るときに寿の語ること」なんてタイトルの文章を仮に書いたとして、誰が興味を持ってくれる?
キリのいいところで、~話、というのをやめようかな、と思っているが、それも決めかねている。
このブログが続いたとして、第四千八百七十六話、みたいになったとしたら、読むほうも書くほうもどっちもしんどいような気がするのは事実。
何か、言い訳として、~話にしておけば、フィクションかノンフィクションかの境目がなくていいな、と思ったのだけど、正直そんなことはどうでもいいことで、
たとえば、昨日万枚出した、と言えば言えるわけで、写真などどうにでもできるわけで。
人はなりたい自分になる権利がある。やりたくないことを拒否する権利もある。書きたいことを書く権利があるし、読みたくないものを読まない権利がある。
できれば大勢の人に読んでもらいたいとは思うが、無理強いはできない。
真実を書いているという気持ちはあるが、それを理解してほしいなんて傲慢なことは言えない。
ブログという、この虚像のような空間の中で、何が真実で何が真実でないかは、やはり、そのブログを書く人間の書く文章で判断していただくしかない、とぼくは考えている。
俗っぽい(いやらしい)言い方をすると、その文章にどれだけ「コストがかかっているか」ということであり、
精神論的な言い方をすると、その文章にどれだけ「魂が込められているか」であり、
その文章に、その文章の総体としてのブログにどれだけの「説得力」があるかである。
品性が下劣でも、内容がお粗末でも、そんなことは瑣末なことである。
「今、風が吹いている」とぼくが書くとする。
「どこに風が吹いているんだ?」と誰かが思ったとする。
その時点で、ぼくの試みは失敗に終わったのだろう。その誰かにとって、ぼくの書く文章は、「捏造」であり、「粉飾」であり、「嘘八百」なのである。
風が吹いている。その風はどこから吹いている?
先日、酒の席で、友人に「ブログを書いてるんだよね」という告白をしてみた。
その友人は、「そうなんだ。後五年早くはじめてればよかったのに」と言った。
「うっせえ」とぼくは言い返す。そして、「何事も遅すぎるということはない」と憤然と言い、「カイタイトキガカイカエドーキー」とおどけた。それでその話は終わった。okey-dokey.
風が吹いている。
けれど、ぼくはその風を見ることができない。
何でも言い合える友だちにも言えないことを書く。それを読んでくれる人がいる。それだけでも、この空間に、ぼくは感謝している。
人と人とが文章でつながる。
友人や、親や、兄弟姉妹にも言えないようなことを、文章という媒介を通して語り合う。
人が文章を読むとき、それがたとえ誰が書いたものであろうとも、読む人間の声で語られる。だから、文章から何かを発見したとしたら、それは、文章を書いた人間ではなく、その人自身の功績であり、発見なのだ。他の誰でもない自分だけの発見なのだ。
このうえなくリアルが充実している方々にはさっぱり理解できないのかもしれないけれど、そのとき、ぼくらは普段開けることのない扉を開き、無限に広がる世界の只中にいる。
そこで見えない一本の綱を握りしめている。
唯一の目印であり、道しるべであり、当世風の言葉で言えば、セーフティネットである。
そのセーフティネットのことを、文学と呼ぶ。
性善説的かつモノッソイ希望的観測的であり、オモクソ理想論的ではあるが、偽らざるぼくの本心である。
風が吹いている。
風が吹くのは書く人間ではなく、読む人間の空洞である。空洞がなかったら、風は吹き渡らない。言葉の入り込む隙間はない。
色んなものをなくした。もう戻れない。
ぼくはからっぽだ。だからよく風が通る。
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