足元に5k相当の特殊景品が落ちていて、さてどうしようと考える。


まあ、答えは決まっている。店員を呼び、「これ、落ちてましたよ」と告げる。

「ありがとうございます」と言われ、これが現金なら二割まで請求できるのにな、と思うこともなく、店内を回る。打つ台がないので、別の店に移動する。



オカルトであるかオカルトでないかはさておき、ぼくがスロットをするうえで、一番重要視するのが、自分の心持である(平たく言うとオカルトなのかもしれない)。



たとえば、よく行くB店で、財布が落ちていて、その中に10万円が入っていたとする。

10万円がただで手に入るなら、それはもちろん嬉しい。

だが待てよ、と思う。たとえ警察に捕まらなかったとしても、ぼくはその後、マイホに行きづらくなるような気がする。それが嫌なのである。


ここに一本のラインがある。


こっちはセーフ、こっちはアウト。ぼくはセーフに一歩、アウトに一歩、足をかけ、立っている。


つまり、ぼくはアウト側の人間でもある。それは自覚している。いまさら安定だとかキャリアだとか幸せな家族計画だとか老後の蓄えだとか世間体だとかそういうセーフの向こう側の現象からは隔たった人間だ。


でも、ぼくはできる限り、真ん中に立っていたい。そしてフラフラと揺れることはあっても、倒れたくはない。


我ながら、キレイゴトだと思う。でも、その場で10万円を得たとして、そのお金が何になるのだろう? とも思う。


罪の意識、こいつの存在はただものではない。


そもそも、今のぼくができあがる過程で、後悔めいたものはすでに山と抱えているのだ。ぼくは新しくそんな類の何かを抱えて生きていきたくないのだ。


村上春樹も言っているが、自分がされて嫌だったこと、自分がしてしまった嫌なこと。どちらがより強く残るかと言えば、後者なのである。ぼくもそう思う。

その罪悪感は、前世から刻まれた負の烙印のように、肉体を縛る。


もちろん、ぼくは品行方正を座右の銘とする聖人君子なんかではない。

ただ自分に正直でいたいだけである。そしてへたれなだけである。


毎日のようにパチンコ屋にいると、年に一度あるかないかでATあるいはART中の台が空いていることがある。


その場合、ぼくはキョロキョロと周りを見渡して、店員の態度を伺った上で、座らせていただく。


先人がどのような理由でその台を捨てたのかはわからない。けれど、目の前の好機はありがたくいただく。


これがぼくの中のギリギリセーフの拾いものである。


そもそもの話、期待値稼働とは、誰かの捨てた期待値を拾う行為である。朝一以外の設定狙いは、誰かの捨てた高設定台を拾う行為である。



ただ、それはお金を直接拾うことではない。リスクと勝率を天秤にかけて、勝率が高いと信じて行うギャンブルである。最終的には、お金に換わる(ことが多い)。でも、そこまでの過程が違う。



どっちでも一緒じゃヴォケ、と思われるかもしれないけれど、ぼくの中では明確に分かれている。


(パチンコ屋の中で)

お金を拾うのはダメ

財布を拾うのもダメ

特殊景品を拾うのもダメ


(パチンコ屋の中で)

ゲーム数を拾うのは○

天井を拾うのも○

AT中、ART中、リーチ目を拾うのは○


張り付きはダメ

偶然を装うのは○


掛け持ちはダメ

打ちたい台のボーダーを下げるのは○


たぶん、ルールのないゲームには参加したくないのだと思う。我ながら、よくわからないこだわりである。ぼくは偽善者で、鼻持ちならないクソヤロウなのだ。

天使だと思っていた人がいたら、謝りたい。


自己弁護を済ませたところで、昨日のこと。


打つ台が見つからず、ホールを歩いていると、猛烈な違和感を覚え、立ち止まる。台を凝視すると、マジカルハロウィン4のARTのランプが光っている。とりあえず、着席する。店員がすぐ、ドル箱を戻しに来たが、何も言われない。罪悪感はあるか? いや、ない(いや、少しだけ)。けど打つ気持ちを萎えさせるくらいはない。 ぼくは千円をコインサンドに入れ、打ち始めた。ARTは70ゲーム残っていた。


+5k


誰かは存じ上げませんが、助かりました( ここで最初の文章に戻ると)。あれ?



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