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「風景の中の自画像」アンリ・ルソー

ふと思う。三十数年の人生の中で、いったい何人の人と出会ったのだろうか? と。


少なく見積もってみても、1000人はくだらないと思う(感覚的にはもっといそうな気もするが、把握不能なので)。その中で友だちづきあいに至ったのは、おそらく一割から二割だろう。


そうすると、一番少ない見立てでも、ぼくには100人の友だちがいることになる。


富士山に登ったことこそないけれど、小学校入学当初の願いは果たされたわけだ。


が、実際問題、今ぼくが頻繁に連絡を取り合う人物は、世界中合わせても片手で数えるくらいしかいない。

世界には70億人以上の人がいるというのに、何ということだろう!



第一関門は、仕事をやめてしまったことだ。


そして第二関門は、日本一周に出たこと。帰ってきて家に閉じこもって外に出なくなったことだ。


時間が経ち、精神と時の部屋から外に出てみると、彼らはどこかに消えていた。


では、その100人はどこに行ったのだろう?


おそらくはどこにも行っていない。

変わったのは、ぼくであり、彼らであり、環境である。時間はすべてを変えていく。そして時間は動き続ける。今も、今までも、これからも、永遠に。


教育もそうだし、物語もそうだけど、友だちという言葉を万古不変の存在、みたいな崇高な玉座に座らせるのを、そろそろ改めるときではないか、と思う。


ぼくが断言しよう。

友だちというのはただ、生活の延長線上ですれちがう人、くらいの意味である。


ぼくはたぶん、この友だちという問題を、今まで百万回ほど悩んでいる。主に学生時代、社会人になってからも多少。あいつはおれのことどう思っているんだろうか。おれは嫌われてやしないか。だとかだとかだとか。


ぼくにとって、友だちというのは唯一絶対の神だった。ぼくは熱心な一神教の教徒だったのだ。


小学生の頃、一番大切なものは何ですか? という質問を先生がしたことがあった。


両親だとか、祖父母だとか、ミニ四駆だとか、ガンプラだとか、キティちゃんの人形だとか、そういう意見が出る中、ぼくは堂々と「友だち」と言った。


というのも、ぼくは物心が先かジャンプが先かというような、ばきっばきのジャンプっ子だったから(当時ジャンプは170円であり、1ドルは140円くらいだった)。
 

知ってのとおり、ジャンプマンガのお題目は、「友情、努力、勝利」である。


ジャンプを読んで一喜一憂していた以上、友だちがいなくなることが一番怖いことだったのだ。


友情、努力、勝利。


しかし、それを現実の社会に当てはめてみると、吹けば飛ぶような軽いジョークでしかないことに気づいてしまう。好意的に見ても、あまりに高すぎる、崇高すぎる理想であり、だからこそ、それを坦々とこなすスーパーヒーローたちに、ぼくたち少年は心躍ったのだろう。


あるいは、今とは時代が違うのかもしれない。

だまされた、とは言わない。けれど、そのような意味で言えば、「ワンピース」というマンガはまったく正しい。


ルフィは友情パワーなどと言わない。ただ、自らのファミリーを、仲間だけを恃むのだ。


大切なのは、友だちと仲間の、線引きである。

その前に、なぜ友だちが必要なのか? という問題について考えなければいけないのかもしれない。
 


長くなる予感がひしひしとするので、明日につづきます。申し訳ない。


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