IMG_1748

昨日とはうってかわって憑き物が落ちたように体調が軽くなった。
しかしまだパチンコ屋に行けるほどではない。

ということで、今日は昨日の文章(「儀式」まどか☆マギカ論)のつづきである。

昨日扱ったのは、「魔法少女まどか☆マギカ のテレビ版」あるいは、そのテレビ版全12話の内容を極めて巧妙にまとめた「劇場版魔法少女まどか☆マギカ前後編」だった。

つづいては「劇場版まどか☆マギカ新編 叛逆の物語」


若干ではあるが、ネタばれ的な要素があるので、これから見ようとしている方は、見た後に読んでいただければ、と思う(ブルーレイ、DVDともに発売日は4月2日である)。



さきほどぼくはつづき、と書いたが、厳密に言えばそこは陸続きではない。

昨今のエンターテイメント作品の全世界的な傾向として、リブート、という作品形態がある。
rebootすなわち再起動である。

一度終わった物語を、なかったことにして、新しくする。
パソコンにおけるインストールと再起動である。
今のエヴァがそうである。
クリストファー・ノーランのバットマン三部作がそうである。
猿の惑星ジェネシスがそうである。

そして、本作「劇場版まどか☆マギカ新編 叛逆の物語」も、原作をリブートした作品である。

以下の文章は去年十月に書いたものを加筆修正したものである。




劇場版まどか☆マギカ新編 叛逆の物語を見てきた。


ぶっ飛んだね。ぶっ飛んだ。そこで描かれるのは幸せな世界。観客が願う、こうあって欲しい世界。え、何、これ? いや、そんなわけねえだろ、と疑心暗鬼を募らせつつも、観客は否応なくほっこりしてしまう。当然それは後にやってくる大いなる破壊の準備でしかないのだけれど。
 

面白いとか面白くないという前に、この物語は今という時代の先端を提示している。

物語の枠を広げるのではなく、むしろ狭めることによって、より大きな物語へ。こんな方法があったんだ。いや、考えてみれば、圧縮ってそういう技術なのか。


テレビシリーズとして始まり、映画になり、各種メディアミックスされ、社会現象化した例でいうと、やはりエヴァを思い出さないわけにはいかないだろう。


1998年に公開された「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」という作品では、アニメーションの流れの中で段々と作画を崩していき、しまいにはその映画を見ている観客の実写映像が流れた。

それはいかようにも解釈できる。

あなたはこの作品を見ている。しかしあなたも、この作品に見られている。というような。

そっちとこっちを分けるものなんて、本当はないのだよ。というような。

何にせよ、アニメの枠組みを壊すことによって、到達できた何かがあった。メッセージがあった。しかし、それは簡単に言語化できるようなものではなかった。解釈はいかようにもできるけれど、逆に言えばどんな解釈も拒むような論理体系の混濁があった。だからエヴァンゲリオンは一時代を築くも、カルト的な立ち居地を余儀なくされ、パチンコ業界のオファーによってメジャー化し、新たな四部作「エヴァンゲリヲン新劇場版」第二作「破」によって新規の客層を掘り起こすことに成功するも、第三作「Q」によって、再び非エンターテイメント方向に舵を取り、新参者をふるい落とした。


魔法少女まどか☆マギカの違う点は、明確な論理構造にあると思う。

それは、キリスト教に似ている。

あるいは、ファッションに似ている。

つまり、一目瞭然性である。


IMG_1683



この新たな劇場作品が示しているのは、「世界は書き換え可能である」という現在性だろう。

何しろ、テレビシリーズ(あるいは劇場版前後編)であった世界を根底から覆すのだ。ちゃぶ台をひっくり返すように徹底的に。完膚なきまでに。


「世界は書き換え可能である」


そのお題目は言うまでもなく、今という時代の母体、この電脳社会の落とし子である。

書き換え可能であること。それは聖域たる「OS」あるいは「原典」であっても、だ。


当然、ソーシャルネットワーキングサービス同様、観客は傍観者ではいられない。観客は自らの持つツールで拡散、拡大し、自らの感動の再生産を目論むだろう。


エヴァンゲリオンという作品が作家志望をたくさん産んだように、まどか☆マギカも作家志望をたくさん産むだろう。


Desire desired desire. 欲望は、欲望を、欲望した。

ぼくはまんまと魔法にかかり、こんな文章を書いている。




後年から振り返ったとき、2013年は偉大な年と記憶される。

なぜか。


「風立ちぬ」が公開されたからである。

「かぐや姫の物語」が公開されたからである。

そして、本作「叛逆の物語」が公開されたからである。

これからの物語を語るとき、この三作を外しては語れないだろう。

奇しくも三作は三作とも、いわゆるハッピーエンド、めでたしめでたし的な結末を選択していない。


かつてスキャッパニズムと呼ばれる体制があった。SCAP連合国司令部とJAPAN日本の談合体制のことである。

マンガ、アニメーション、特撮、等々、戦後日本のサブカルチャーは、この地で育まれ連綿と続く文化と、アメリカ統治による混交による落とし子である、とぼくは考えている。



血塗られた土壌から新たな神が誕生した。



「自己懐疑」という視点。自虐や自己嫌悪、自己憐憫、自己陶酔や自己顕示欲すら孕む幾重にも折り重なった重層的なコンプレックス。


自分たちの信じていたものが、真ではない可能性。

それでも人は生きていかなくてはいけない。ここではないどこかではなく、今、ここで。



だからこそ、ナウシカは言う。

「かまわぬ。そなたが光なら、光など要らぬ」と。

「わたしたちの神は一枚の葉や一匹の蟲にすら宿っている」と。

「清浄と汚濁こそ生命だ」と。

「私たちは血を吐きつつ、繰り返し繰り返しその朝を越えて飛ぶ鳥だ」と。


宮崎駿の描く主人公はすべて何らかの呪いを背負って生きている。


シンジくんは逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ、と呟き、そして叫ぶ。


敗戦国に生まれた。


ぼくらの原罪はどこにあるのだろう?


ぼくらの責任は?


ぼくらの取るべき行動は?


そして進むべき未来は?


アニメーションの中の登場人物たちは、その華奢な体にその業を宿し、ただひたすらに、ひたむきに、戦っている。


いやあ、でも、けっこうヘビーなこの映画を観に、10歳に満たない女の子を連れた家族がちらほらいたのはびびったなあ。

大人がこうして文章化して消化しようとしているものを(それでも消化できないものを)、彼女たちはどう受け止めたんだろう? 


観終わってしばらく立てなかったぼくの前で、おそらく母親(ぼくよりも幾分年上)と、おそらく娘(10歳くらい)が立ち上がり、母は言った。

「三回見て、やっとわかってきたね」
娘は何か言いたげな表情をしたが、そのままこくんとクビを前に傾け「うん」と言い、ふたりは歩いていった。 



いくら先端性の提示とはいえ、世界は書き換え可能である、という考えは恐ろしい。それはすなわち、神の思考であるからだ。あるいは悪魔の思考とも言えるかもしれない。いずれにしろ、超越者の思考である。


物語の中で、登場人物のひとりが神になり、登場人物のひとりが悪魔になる。いや、主要登場人物すべてが超越者になる。彼女たちの神格化の担保になるのは「愛」なのだ。
 

ぼくは愛という言葉がこんなにも効果的に使われた作品を知らない。


考えれば考えるほどに、怖い映画である。





参考文献





 

にほんブログ村 スロットブログへ
人気ブログランキングへ