風邪がちっともよくならない。
むしろ次の段階に移行してしまった感がある。
ノドの痛みはより先鋭性を増し、身体の節々が痛み、熱が出るようになった。
このまま死ぬのだろうか。
しかーし、このまま死ぬのは嫌なので、ブログをはじめる以前に書いて、出すアテもなくそのまま放置していた、これだけは言っておかねば、という文章を手直ししてアップしようと思う。

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「儀式」まどか☆マギカ論


イニシエーションという言葉がある。通過儀礼と訳される、その集団に属する以上、通らざるを得ない関門、文化人類学でよく使われる言葉である。


簡単に例を挙げると、割礼(包茎手術)、刺青、抜歯、火渡り、バンジージャンプ、等々。そう、だいたいにおいて、苦痛を伴う行為であり、おそらくはその苦痛を通過することにより次のステージに進むという意味合いがある。
 

オウム真理教においては本質を外れ、LSDを用いたり、宗教指導者の体液を飲むというイニシエーションがあった。が、たぶんそれはイニシエーションとしては邪道である。本末が転倒しているからだ。


要するに理念としては、痛みを克服してスーパーになる。筋トレと同じだ。負荷をかける、細胞を破壊する。するとその細胞は前より少しだけ強くなって再生する。野焼きと同じだ。サイヤ人の特性や、少年マンガによくあるような必殺技ともだいたい同じシステムだ。

イニシエーションとはつまり、人生につまずかないために擬似的につまずくという、言うなればエントロピー増大の法則に抗う生命システムの模倣だとぼくは思う。


さて「魔法少女まどか☆マギカ」という作品である。


ふーむ……


この作品は、ぼくらの世代にとっての「エヴァ」または「ベルセルク」に似た要素があると感じる。


が、登場人物たちの見てくれは全然違う。血なまぐさい雰囲気など微塵もない。むしろ男子を遠ざけるお目目クリクリ、ピンク&フリフリ全開。


たとえば西暦二〇一四年、ぼくが高校生だったとする。

リア充集団のひとりとして肩で風を切って歩き、我が世の春を謳歌している。ぼくは学校をさぼって友人の部屋で休んでいる。友人がふいに言う。

「最近これにはまってんだよね」

「何?」とぼくは返す。

友人はおもむろにテレビの電源を入れ、ハードディスクに入っている映像を流し始める。

「はぁ?」ぼくは眉間にしわを寄せて言い放つ。「おまえ、正気か?」


魔法少女まどか☆マギカの絵柄を簡単に説明としたら、そんな感じであります。


ぱっと見で分類すれば、いわゆる魔法少女もの、「魔法使いサリー」「ひみつのあっこちゃん」などの系譜である。一般的な高校生男子が血湧き肉躍るものでは決してない。


高校生のぼくは「マジかよ、おまえ、こんなの見てんのかよ。ありえねえだろ」と言いつつも、見始めると、止められなくなる。


描かれている世界は極めて陰惨である。彼女たちの住む世界には魔女という存在がいて、原因不明の自殺や殺人はだいたい魔女の仕業ということになっている。

安穏と暮らしている主人公は、ある日、その事実を知る。そして、魔法少女にならないか、というオファーを受ける。


魔法少女になれば何でも好きな願いが叶えられる。代償は、魔女と戦う宿命を背負うことだ。


魔法少女は絶望をふりまく魔女を滅ぼす希望の存在であるが、しかし魔女の存在は魔法少女以外には見ることができない。したがって、魔法少女は人知れず魔女と戦う日々を送らなくてはならない。


主人公の周りでは同世代の魔法少女たちが日夜魔女と戦っている。そのほとんどは知り合いである。

が、主人公は魔法少女にならない。物語が進んでいっても全然ならない。エヴァンゲリオンに乗れ、と言われて「いやだ」と言うシンジくんと違い、本人にその気があっても、いつも邪魔が入って魔法少女になれないのである。



この作品のひとつの特徴は、ファンタジックな見た目と裏腹な、ある種男性的ともいえる論理的整合性である。考えれば考えるほどによくできているのだ。


この物語を見てトラウマになる小中学生は多いだろう。そう推察する。

が、荒木飛呂彦がホラー映画を「癒される作品」と表現するように、フィクションにはある種の役割がある。

先述したイニシエーションである。


古くはゲーテの「若きヴェルテルの悩み」が若者たちを死に誘ったように、かつてイニシエーションの触媒たる物語は「小説」が担っていた。「はしか」にたとえられた太宰治の小説群のように。

それが映画になり、マンガになり、アニメになった。何の不思議もない。時代は、そして欲望は、常に最先端のものを求めるからだ。ただその根幹にあるものは変わらない。


「破壊」である。

 

ただし弊害もある。

 

ナルトを読んでいて、サスケというキャラクターの兄が死んだことにショックを受けて自殺したロシアの男の子。

J・F・ケネディを暗殺したオズワルド、ジョン・レノンを殺害したマーク・チャップマンが愛読したといわれるキャッチャー・イン・ザ・ライ。

デスノートの影響か、殺人現場にキラという名前を残したベルギーの若者たち。

 

それに耐えられない人間が死に、それを乗り越えられない人間が他人を死なせていくことすら折込済みなのだろうか? 


それでもたぶん、破壊は必要なのだ。挫折のないところに飛躍がないように。

大事なのは、間違ったメッセージを受け取らないということ。すべての破壊はその人の今後の人生のためにあるのだということ。 それ以上でもそれ以下でもないのだということ。

 

鑑賞者の常識を、認識を、今という地点を破壊する。

筋肉を破壊することによって、筋肉は少しだけ強く再生する。

絶望をまくと、希望の種になる。


「若いってしんどいなあ」若さをこじらせてしまい、もう戻れない場所で文章を書き続けるかつての若者(現在おっさん)はつぶやくのである。


いやいや、風邪もしんどいぞ、と現在のぼくはつぶやく。

ここ数日めっきり暖かくなったというけれど、外に出られないのでよくわからない。いっそのこと寒い季節なんてなければいいのに、とさえ思う。しかし、
冬の寒さがなければ、桜はうまく花を咲かさないのだそうだ。


元サッカー日本代表の監督、イビチャ・オシムはスポニチのインタビューにこたえ、苦境にいる香川真司に向かってこんな発言をしている。

「大事なのは自信を失わないこと。現在の苦しみは、少年が大人になる時に熱を出すようなもの。必ず過ぎ去り、一回り成長する。欧州に来た時の大志を忘れず、チャンスが来た時の準備をしてほしい」


そう、風邪を抜ければパチンコ屋に行けるのだ(何の話だっけ?)。
 





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