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天才とはなりたくてなれるものでは決してない。天才とはすであるものであり、生まれるべくして生まれるものである。


ぼくにそのような天賦の才能はない。だからこそ、天才というものに惹かれてしまう。

たとえばモーツァルトであるとか、イチローであるとか、武豊であるとか、羽生善治であるとか。


本人たちは異口同音に言う。「天才ではない」と。それでも市井の人間の目から見れば、天才以外の何者でもない。


たとえば羽生善治。元七冠、現王位にして王座にして棋聖(そして王将戦を対局中)。


羽生は自身の著書で、直感が合っていることは7割くらい、と言っている。


ん? と思う。

直感にしたがって将棋を打つだけで7割は勝てるということなのか?


ということで、羽生善治の通算成績を見てみようと思う。


http://www.shogi.or.jp/kisen/record/tuusann.html


17581269488敗。


勝率7割2分2厘3毛。


もちろん、直感、というのは、すべての局面で使える類の能力ではないだろう。手なりであるとか、定石であることか、対局相手のパターンだとか、訓練による無意識のレベルでの作業の繰り返しの果てに存在する神の一手なのだろう。


それにしても、である。天才しか入れない棋界という世界において、この勝率とは。何という不公平さだろうか。


一般人が一生懸命歩行する。

そこを秀才がすいすい自転車で追い越していく。

しかし天才が自動車でブオーン。

いやいや、天才中の天才は飛行機でヒュン。


天才の言葉に触れ、啓発されることは多々ある。でもそれを、自分という人間に落とし込んでみると、ちっともさっぱり通用しない現実にぶち当たる。

ぼくは天才ではないからだ。



たとえば今年のスロットの成績を見てみると、こうなる。


334972325分、勝率は2割9分0厘。


バッターならまだしも、チーム成績としたら、ひどい成績である。首位と何ゲーム差があるか、考えたくもないくらいである。


が、単位を一台から一日に変えるとこうなる(パチパチと電卓をはじく)。

……6割3分3厘。


ん? まさか?


……もしかして、ぼくも天才の類なのか?(なわけない)


ぼくはどちらかというと、数字を追うのではなく、その日の気分を優先させることが多い。


だから少しでも浮いていれば粘らず帰る。高設定とおぼしき台に座っていても、閉店残り三時間前くらいには引き際を考える。

へたれやめする前にやめる。トータルよりも、その日の勝利を優先させる。


当然、専業スロッターにあるまじき行為であるが、それでいいと思っている。いかに快適に明日の執筆を迎えられるか。ぼくの生活はそこにのみ照準を絞っている。


一対一の勝負、それも、優劣が必ずつく世界に生きている羽生さんとはまったく違う。でも、ぼくという人間には、ぼくという人間における最適解があるはずである。


天才の代名詞みたいなバッターがいる。それでも前田とイチローと松井と落合のバッティングフォームは全然違う。まるっきり違う。別の競技をしているみたいに違う。それはその人の骨格や筋量、求める理想の打撃が違うからだ。そのように、最適解の求めかたは、個人個人違う。


文章も同じだ。何を書くのか、何を書きたいのか、何を書くべきなのか。


ぼくは何を書くべきなのか?


天才でない人間は、ひたすらひたすら自問自答するしかないと思っている。そしてじりじり進むしかない。一歩一歩。ぼくの一歩を天才がビューンと越えていくのだとしても。




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