乗り遅れている感はあるが、「東京喰種」を読んだ(トーキョーグール。ヤングジャンプで連載中のマンガです)。

面白いものを読むと、なぜか喜びとともに、悔しさがわきあがる。

だってうまいのだ。大変うまい。

何がうまいと言って、設定がうまいのだ。


舞台はこの世界とは少し違う東京。主人公はいたって普通の男子高校生。好きなものは読書。友だちは少ないけれど、ひとりだけ親友がいる。ここまではよくある話である。

その東京がこの世界と少しだけ違う理由。それは人間を食べる人間がいるということである。


我々が生活する現在の地球において、食物連鎖の頂点にいるのは人類である。それはひどく当たり前のことで、普段考えもしないことである。だから我々は、食について、そんなに悩まずに、国家の豊かさ&デフレの恩恵を受けつつ、のんべんだらりと暮らしている。



読んですぐに思ったのは、主として日本に向けられるキリスト教圏からのクジラ漁、イルカ漁バッシングのこと。


この問題について、日本人の主張を最も明確にあらわしているのは、以下の台詞だろう。


生き物は生き物食べて生きてんのよ。せっかくの命は全部もれなく食べつくしなさいよっ」


そう、エヴァンゲリヲン新劇場版「破」における、式波・アスカ・ラングレーさんの台詞である。



我々は食物を摂取するとき、「いただきます」と言う。

そして食物を摂取し終わった後、「ごちそうさまでした」と言う。


何をもって宗教とするかは人によって分かれるところだが、これらはどう考えても極めて宗教的な言葉だろう。


そう、この問題は実は、宗教論争なのである。


宗教観というのは、その宗教を当然のものとみなす身内と、その宗教を意識の埒外に置く外様では認識のギャップがあるに決まっており、当然、我々にとってあたりまえのことが、日本以外では全然あたりまえでないということはたくさんある。

日本人は、日本人が思っている以上に、(血液型占い、星座占い、パワースポット、仏教、神道、キリスト教、アニミスムや汎神論等々の混交による)宗教的な価値観を今もなお保っているし、それはどう考えても無宗教と言えるレベルを逸脱している。

このことを日本教といったのは山本七平である。


そして、日本教ではない人たち、少なくとも和歌山県のイルカ漁に反対している人たちは、イルカや鯨の権利と、日本の沿岸部に住む人が数百年(あるいは数千年)に亘って行ってきた生活を天秤にかけて、前者を取ろうと思っていることは、間違いないことだろう。



難しい問題である。が、宗教論争に簡単なものなどひとつもない。

ある言語とある言語を比べてどちらが優れているかを競うようなものであり、当然、そのような問題に明快な答えなど出るはずがない。

だからこそ、世界人権宣言というものがあるのだ。


第一条はこうある。

「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて、平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」



増やせるものだけ食べればいい、という一見合理的な意見もある。


が、グローバリゼーションによる食のアメリカ化が、人類にとって至高の未来を約束しているとはどうしても思えない。

本来なら、この価値観と価値観のコンフリクト(衝突)は、サバイバルという観点から考えたときプラスに働くはずなのだ。


日本国内に限ってみても、北海道と沖縄では食文化が全然違う。長野など海のない地方では今でもある種の虫を食べるし、(これは一概には言えないけれど)関東では納豆を、関西、北陸、東北ではなれ寿司を食べる文化、習慣がある。


交通網の発達によって、また、東京の一極集中化によって、この定型はずいぶん崩れてしまったが、それでも食の地域特色は、生物界のニッチ同様、合理的だったはずである。


極端な話、同じ地域に生息するにもかかわらず、ある民族にとって食べられないものが、ある民族にとってのご馳走、というのが、もっとも合理的な状況なのだ。生態系はそのような多様性を担保に成立しているはずである。


さて、「東京喰種」である。


この作品に登場する、人間を食べる人間、すなわち喰種(グール)という存在は、見かけは完全に普通の人間でありながら、一般的な人間が食べる食物を食べることができない。

不味い、というレベルではなく、痙攣を起こし、体調がおかしくなってしまうくらい、人間の食べ物が口に合わない。

では彼ら彼女らは何なら食べられるのか。それは唯一、「人間」だけなのである。


グールたちは、一般的な人間に比べ、人間の命に対する価値観が総じて低い。そりゃそうだ。自分たちと姿形の極めて似た生物しか食べることができないのだから。でも、それ以外は普通の人間と同じような価値観で、生きている。

良い奴がいれば、嫌な奴がいる。面倒見の良い奴がいれば、一匹狼の奴もいる。人間を襲って食べるのが嫌だから、自殺スポットを回って死体拾いを行うグールもいる。強硬派のグールもいる。組織をつくるグールもいれば、異常殺人者のようなグールもいる。普通の人間社会と何ら変わらない、多種多様のグール(人間)模様なのである。


これに対して人間たちは、対グールスペシャリストの集団を養成し、対抗組織がつくられている。


一般人には一般人の正義がある。

グールにはグールの正義がある。

グールを駆逐せんとする人間にも正義がある。
 

一般人、グール、対グールスペシャリストという三角形が、本作の基本構図である。
 


荒木飛呂彦は自作「ジョジョの奇妙な冒険」シリーズを総括して、こう述べている。人間賛歌である、と。

そして「ホラー」という彼が溺愛するジャンルの特性について、独特な言葉で表現している。癒し、だと。

”「美しいもの」「楽しいもの」「清らかさ」といったテーマを描いた芸術行為・表現には、「美」の基本となるものが含まれています。
~中略~
しかし、そうしたただ「美しい」「正しい」だけの作品には、決定的に「癒し」の要素が不足しているように僕は感じます。” 「荒木飛呂彦の奇妙な映画論」より抜粋
 

正義も悪もない。ジョジョの登場人物は、全員が全員、自分の正義を生きている。
 

そんなジョジョにつながる人間賛歌と癒しを、「東京喰種」から感じる。


同時に、エヴァンゲリオンのシンジくんに見られるようなナイーブさも受け取れる。荒木飛呂彦は、シンジくんのナイーブさを受け入れることができないというが、ナイーブ性と人間賛歌との見事なまでの一致が「東京喰種」にはある。それが結果的に癒しを促すのである。


ぼくは個人的に、日本のサブカルチャーが連綿と描いてきたナイーブさは、第二次世界大戦における敗戦に端を発していると見ている。

それはある種の混交である。新大陸に連れてこられた黒人がジャズを、そしてロックを産んだように、連合国総司令部(SCAP)とジャパンの合体「スキャッパニズム」が、戦後のアニメを、マンガを、思想の面から構築したのだ、と。

それは混交であると同時に、マッチョイズムへのアンチテーゼであり、異議申し立てでもある。


日本のサブカルチャーに通低する思想とは、人間が誕生して以来、ずっと芸術という形で追求してきたことと同じく、「人間とは何か」に答えるものだ。


そしてそれは、ひとつの問いを提示するに至る。

「自分は正しいことをしているのか?」というナイーブな問いである。


そしてそのナイーブさは、遠く海を隔て、「ダークナイト」や「アバター」などといった娯楽作品と通じ合うものがあるようにも思う。


人間賛歌であったり、癒しであったり、ナイーブさに彩られた作品は、宗教論争を乗り越えるような、人類の偉大な達成だと思う。


「東京喰種」には、舞台設定以外にも優れた要素がたくさんある。エンターテイメントとしての設定、喰種たちのいわゆる必殺技や、対グールスペシャリストたちの使う武器(それはグールの死体から作るのだ)など、隠し味がそこここにちりばめられている。

主人公はこの三すくみの混沌たる世界で引き裂かれるような立ち居地を余儀なくされている。


主人公は普通の人間ながら、グールに襲われ、しかしグールの細胞を移植されたことで生きながらえて、人間の食べ物が食べれなくなってしまった普通の高校生である。


作品はまだ終わっていない。この作品の提示する問いの行方を見届けたい。




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