IMG_2078
「文読む女」喜多川歌麿

文章とは、広義のコミュニケーションツールである。

読むにしろ、書くにしろ、それがコミュニケーションである以上、まずは共通理解が必要になってくる。

その人にとってのAが、別の人にとってのBでは、話にならないからだ。


ぼくは日本語を使って文章を書いている。したがって、この文章を読んでくれている人は、日本語を解しているはず、というのを前提にしている。


次に言葉の特性を理解しておく必要がある。


ことば、こばと、では意味が変わってしまう。

文章とは単語と単語の組み合わせであり、単語とは五十音の組み合わせである。

だから文章とは、きちんと順序立てて文字を重ねていかなければいけないシステムなのである。これを文法と呼ぶ。


まあ、このあたりは義務教育の領域なので、次に進む。


ぼくの思う文章の基本は論理性である。

コロコロと言っていることが一々揺れていては、何が本当のことかわからないからだ。


論理とはロジックのことであり、思考の形式、法則というような意味の言葉である。

要するに文章表現における柱のようなもので、特に大人に好まれるのは、三段論法といった類の論理性である。


1、大前提

2、小前提

3、結論


どういうことかというと、


1、人間は全員死ぬ。

2、寿は人間である。

3、寿は死ぬ。


みたいなことだ。

(このたとえはウィキペディアにあった用例の換骨奪胎)


提唱者は「奴隷は言葉を喋る道具」と言ったアリストテレス。いや、これは別に悪意をこめているわけじゃない。当時世界最強クラスの頭脳の持ち主だったアリストテレスだが、今とは当然常識が違うわけで、その当時の常識を口にしただけだ。

そんなことを言ったら夏目漱石だって、三島由紀夫だって、今だったらとても出版できないような言葉を文章にしている。


ぼくだって、未来の人間から見たら、「ナンダ換骨奪胎トイフノハ」と、未来人の逆鱗、激おこスイッチに触れているかもしれない。

「ワレワレホネナシヲ、ディスッテイルノカ。ケシカラン」と。


ともあれ、文章には論理性が必要だ、という話。


なんだかめんどくさいことを書いてるな、と、ここまで書いて思う。ということは、これを読んでくれている人は、何あたりまえのことをヅラヅラ述べてんだこいつは、ヅラか、コラと思う前に、もうこのページから消えている。


ブロガーとして、それではまずい。
 

そこで、文章を読んでもらうための方策を練るわけである。


めんどうを省くために、人間同士のコミュニケーションでは、しばしば省略を使う。


「これは、ペンですか?」

「はい。そうです」


というような、会話はありえないということだ。


「ペン?」と聞いている以上、その人間はものを書きたいに決まっている。ペンを知らない人間がペン? と聞くはずがない。ペン以外のものを持ってペン? と聞くのは病的であるか、または悪ノリである。 


略したほうが、何かと都合がよろしい。何よりスピーディである。


最近の若者は何でもかんでも略しおって、という老人の声が聞こえてきそうだけど、戦後の新聞にはマッカーサー元帥のことを「マ元帥」と書かれていたし、そのさらに前、超ド級という言葉は、イギリスのドレッドノートという戦艦に由来する。まあ、どちらもマスコミ用語であるが。

英語にしても、thx(ありがと)だったり4u(おぬしへ)だったりwth(何やそれ!)という省略が用いられており、根本的に言葉は時代のスピードが上がるごとに、簡略化の方向に進むようである。


また脱線してしまった。

元に戻そう。


ブロガーの書く文章というのは、インターネットという空間に浮かんだ泡のようなものである。

そのバブル品評会のなかでいかに目立つかというと、やはりインパクトがどうしても必要になってくる。


インパクトをもたすにはどうすればいいか。


それは、人を脅す職業の御仁が詳しいだろうと思う。


「ぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺらぺら……」

と説明をした上で、「以上の理由をもって、あなたを殺さなければいけない」

とするよりも、結論から入ったほうがより効果的である。

ただ一言、

「殺すぞ」と。

「……」

「殺すぞ」と言われると、え、何で? と思うよりもまず、体がぴくっとしてしまう。無視できない状況というやつだ。

ぼくの見るところ、ブロガーはそのような言葉をタイトルに選ぶ傾向にあると思う。


「~に必要なたった~個の方法」


だとか、


「~の秘密」


だとか、

「~は~割で決まる」

だとか、 


そのような傾向、流れに乗るかどうかは、個人の考え次第だとは思うが、柳の下にドジョウはたくさんいるようで、そうなると、乗った方が得策にも思われる。

ぼく自身、そのようなタイトルをつけている自覚もある。


が、結局は中身なのだろうと思う。表面だけ取り繕って流行りに乗っても、そんなものはすぐ淘汰されるはずだ。


羊頭狗肉だからである。

羊の肉を売ると言って、犬の肉を売る店、それは詐欺行為だ。一時的に承認されることがあったとしても、その行為が真に認められ、続くはずがない。


したがって、ぼくの考えるモノサシは、持続可能性である。


ブログの一番の特性は、日常に寄り添う親和性だと思っている。つまり、漬物のようなものだ。

ご飯の種類が何であれ、添え物として許される存在。

このブログではそんな文章を書きたい。


持続可能かどうか。それは、ギャンブルから学んだ大切なことである。
 

にほんブログ村 スロットブログへ banner
人気ブログランキングへ