書くこと、賭けること

どうもはじめまして。スロ小説家のブログです。

すべての書かれたもののうちで私が愛するのは、自分の血で書かれたものだけだ。
血で書け。そうすればきみは、血が精神であることを経験するだろう。

フリードリヒ・ニーチェ 永井均訳
「ツァラトゥストラはこう語った」
読むことと書くこと、より

第百七十二話「おい寿。おまえの打つバジリスクタイムの継続率消しといてやったから(by絆)」

ここにさらすのは、四体のむくろである。

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第百七十一話「日焼け止め」

もう何日も前から蝉の声は聞いていたのだけど、さっき初めてその姿を目撃した。
ミーンミンミン、とミンミンゼミが朝から眠眠打破のように鳴いております。あるいはジージージージーと地中の六年を表現しているかのごとく、アブラゼミが鳴いております。
そういえば、関東と関西では蝉の種類が違うのか、鳴き声が違いますね。関西の蝉はシャワシャワゆうてますね。住んでいた頃、よく聴いた覚えがあります。

蝉といえば、風流な人になりたくて、毎年初めて蝉の声を聞いた日をメモっていたのだけど、そのメモがどこに行ったかわからない。どうでもいいといえばかなりどうでもいいものだけれど、哀しいといえばちょっと哀しい。

ところで今年から、ちょっとパチ屋に行くくらいでも、日焼け止めを積極的に使うようになりました。
女子力をあげよう、というわけでもなく、アンチエイジングというわけでもなく、ただ単純にもうこの先の人生において日焼けはしないでいいかな、と思っただけである。

今朝の報告は別に、ただそれだけ。
病んでるの? 病んでるの。

じゃあパチ屋行ってきます。

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第百七十話「借りぐらしのアリエッティについて岡田斗司夫が語るときにぼくの語ること」

告白します。
実はぼくは、宮崎駿というタトゥを体に彫ってもいいと思うくらいのジブリ好きであります。

しかしながら、ぼくも創作者のはしくれ、すべての創作者に喧嘩を売って歩かなければいけない立場であり、どれだけ天上人であったとしても、他のクリエイターのタトゥを入れるわけにはいきませぬ。というわけで、ぼくは「寿」の一文字を心に(あるいはブログに)刻み、日々、文章と闘っていおります(デ、合間にスロットをスル)。

ともかく、先週の金曜ロードショーは「借りぐらしのアリエッティ」でした。「思い出のマーニー」の上映を翌日に控えた宣伝番組ではありましたが、ご覧になったでしょうか。

この金曜ロードショー放映に合わせ、オタク界の教祖、岡田斗司夫がアリエッティについて語る動画がアップされていました。

ぼくは岡田斗司夫さんの視点が好きで(マンガ夜話という番組がきっかけでした)、著書を何冊か持っているし、無料メルマガにも登録しているし、彼の運営する組織に属したいという気持ちはないにしろ、言動の気になる文筆家のひとりではあるのですが、今回のこのアリエッティの感想については、完全にぼくと反目しており、幾分憤りもあり、今回は、そのことについて語ってみたいと思う。

なお、以後は「借りぐらしのアリエッティ」という映画についてのネタバレしかないので、まだ見ていないという人は、是非、ご覧になってから、読んでいただきたい。

【緊急企画】岡田斗司夫『借りぐらしのアリエッティ』を語る


岡田斗司夫はこんなことを言っている。


『借りぐらしのアリエッティ』ってあったじゃん。アレ観た時にオレは凄く面白くて、「ああこれはジブリの人たちが脱宮崎駿をやろうとしているな」『借りぐらしのアリエッティ』ってシナリオを宮崎駿が書いたんだっけ? 確かそう言う風な作品だったと思うんだけど、アリエッティの中に出てくる家政婦のばあさんがいるんだ。これがスゴイ不思議なキャラで映画の中の役割では悪役なんだよ。

アリエッティたちの家を暴こうとして小人たちを捕まえようとしていて明らかに悪役なんだけども、スタッフの描き方がそうじゃないんだ。すごい無邪気ですごい迷惑な人って言う書き方なんだ。顔見たら宮崎駿そっくりなんだよな。

宮崎駿そっくりでその婆さんがやってる事は何かと言うとアリエッティのお母さんを捕まえようとするんだ。アリエッティのお母さんと言うのは凄くカマトトぽいと言うか、おばさんなんだけど女の子らしい「いやいやっ」ってクネクネするような女なんだ。それを一生懸命捕まえる。

これ明らかにメタファーだよな。つまり宮崎駿が追い求めているアニメの中に再現しようとしている少女性って言うのは「アンタの年代の世界観であって、すでに現在では通用しないカマトトぶった少女性なんじゃないの?」みたいな暗喩が入ってる。それをシナリオで書いた時は絵でそう言う風に考えていなくて自分の中の自然な流れで書くんだけれども、絵を描く人間は明らかにそれをメタファーとして乗っけてる。けど宮崎駿を憎んでいないからそこをトリックスター的に描いちゃう。愛すべき変なキャラクターとして描いちゃうからストーリー上は悪役であるべきなのに、悪戯っぽくて悪意が無いになっちゃうんだから。”



そういう見方もあるだろう。
映画をどう見るかはどうしたって個人個人の立場によるし、思考にも、主義主張、あるいは信仰にもよってしまうのだからそれはいい。むしろ、こんな見方ができるのは岡田斗司夫しかいないくらいにユニークなものである、とも言える。

が、次の発言にん? と思った。


岡:ホンネ言っちゃった、企画倒れ‥‥でもねラストシーンがジブリらしくなくて面白かった。病弱な少年がいてカレがアリエッティを助ける事でさあどうなるかって言うんだけども、あれ明らかに死んでるよね。

ただでさえ心臓手術が成功するか失敗するか、失敗の確率が高いって言ってるところにアリエッティ助けるのに夜露に濡れながら徹夜で探し回っているワケだよ。何でオレが死んでると言えるのかと言うと、皆映画を作る人間の立場で考えてみて。映画を作る人間の立場だったら絶対にカレが手術を生き残っているんだったら、ちゃんと病院の中で生き残っているシーンを入れるはずなんだよ。

でもそれを入れないってことは「それは視聴者の想像に任せます。私たちは分かってますけどね」って言うメッセージなんだよ。(読んで)ああ、ネタバレ。わりいわりい。(笑)”
(寿注:原文ママ)


いやいや、岡田さん、この映画の一番大切なところを見落として(聞き漏らして)いますよ。

この映画がどのようにスタートしたか。

「ぼくはあの年の夏、母の育った古い屋敷で、一週間だけ過ごした」 ミュージックスタート!

そう。映画はそこからはじまるのだ。

かつて宮崎駿はエンターテイメントのひとつの理想として、こんなことを言っていた。
「このシーンのために映画があるようなラスト」、と。

対して、米林監督は(あるいは脚本を手がけた宮崎駿は)、そのために映画があったようなファーストシーンを持ってきている。
それはひとりの人間の言う、こんな言葉だ。

「ぼくはあの年の夏、母の育った古い屋敷で、一週間だけ過ごした」

そう、この映画の内容は、すべてこのセリフに凝縮している。

映画のラスト、少年は去っていくアリエッティの背中に向けてこう言う。
「アリエッティ、君はぼくの心臓の一部だ。忘れないよ、ずっと」と。

その言葉を言った以上、ショウくんが死ぬはずがない。
思い出してほしい。
(借りぐらしの)アリエッティが主人公から角砂糖を受け取り、そのお返しに(人間から借りたものとはいえ)髪留めを渡した、美しくも儚いトレードのことを。少年はいつか消え去る砂糖を、少女は髪を留めるという、いわば神聖な道具を交換しているのだ。

岡田斗司夫はこの映画のラストシーンについてこう語っている。


川を下る時アリエッティは髪を下ろしているんだ。髪の毛下ろすと言うのは映画上の暗喩で「女になる」って言う意味なんだよな。それを川を流れる、つまりそれまでの自分の人生とか罪が洗い流されて流れる、子宮の比喩、女性の比喩とか、色んなものに乗っかりながら。アニメ作る人間は絶対に考えるんだよ。”


メタファーうんぬんを言うのなら、このトレードがあったからこそ、少女は大人になったのだ。そして、アリエッティが心臓の手術を受ける主人公に対して「これを、そばに」と言って髪留めを渡した瞬間、あの瞬間に、ショウくんは生き残る権利を得たのだ。

「アリエッティ、君はぼくの心臓の一部だ」
このセリフは、トレードの結果、主人公が主人公として覚醒した証である。
明後日には手術が待っている。ぼくは死ぬと思っていた。しかし、その手術は成功するだろう。主人公の目はそこまで見通している。
あるいは、生き残った未来から、戻ることのできない過去に語りかけている言葉なのかもしれない。

いずれにせよ、このトレードを経て主人公の人生は動き出し、その結果として、「ぼくはあの年の夏、母の育った古い屋敷で、一週間だけ過ごした」というセリフが生まれ、映画ははじまる。つまり、この円環構造こそ、この映画の最大の見所なのである(と、ぼくは思う)。

小人たちのこれからはわからない。しかし、少なくとも病弱な少年は、生き残ったのだ。

「借りぐらしのアリエッティ」というタイトルながら、映画の主人公はショウくんである。
これはアシタカが主人公だった「もののけ姫」と同じようなパラドクスであるが、鈴木敏夫(プロデューサー)の謀略でタイトルになった「もののけ姫」とは違い、(結果的に)ダブル主人公になってしまうという目線のぶれは、監督としての経験のなさに起因しているのかもしれない。あるいは、それを狙ったのかもしれない。どちらにしても、ぼくは米林監督の演出を好感を持った。ショウくんではじまり、アリエッティで終わる(アリエッティの家族とスピラーがヤカンで川の流れに乗る蛇足的なエピローグ)という、どっちつかずの態度すらも。

表現というのは(もちろん評論というのも)、どこを軸にするかで変わる。

今回、岡田さんは天上人的に、またはアニメ製作者的な目線で、さらっと常識を言ったに過ぎない。真実はいつも残酷なものだよ、というようなスタンスで。あるいは、容姿端麗かつ病弱な少年は死ぬものだ、という認識があったのかもしれない。それはわからない。真実は残酷。それはそうだろう。 
けれど、このアニメはそうではないとぼくは思う。

残酷といえば、「アリエッティ」の方に残酷な、どこまでもヒューマニズムな映画なのである。
人間は今もなお増え続けている。人間が増えれば増えるだけ、他の生物は死滅していく。それは紛れもない事実だ。
どんなに声高に自然環境の保全を訴えても、人間が増え続ける限り、他の生物はどんどん滅んでいく。
そんな人類のひとり、死を運命づけられていたような少年が、絶滅という運命を背負う小人の少女に命を助けてもらう。それはもちろん、たまらなく残酷な話である。
しかし、二つの生命の運命が交差する瞬間は、儚くも、美しい。


補記

ぼくのこの意見も、ぼくの立場、ぼくなりの考え、主義主張、あるいは信仰によるものなので、正解というわけでは無論ない。ぼくはこう見た、というだけであり、感想を述べるとは、つまりは自己表現そのものなのだ。

いずれにしても、「借りぐらしのアリエッティ」という作品が、脱宮崎駿という志向性のもとにある、という岡田さんの主張には賛同する。
(新生ジブリのキーマン)米林宏昌監督は、宮崎駿のエッセンスをどう消化し、どう再構築しているか、あるいは、どう反発し、どう足蹴にしているか。来週あたり、「思い出のマーニー」を観にいこうと思っている。
 
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作者 寿
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ふと思う。スロ歴ってどれくらいなんだろう? 今年で20年? そんな経つ? ピーいれたいね。スロットばっか打ってるわけじゃなくて、普段は小説書いてんすよ。ちっとも売れないけどね。つうか売ってないしね。けどこのブログだと読めんすよ。フォウ!

ブログポリシー「my rights sometimes samurai!」
当ブログは、寿という人でなしが小説を書くなかで、
また、スロットを打つなかで、
はみ出たものを一所懸命につづったものです。
基本的に毎日更新してはいますが、
毎朝グビグビ飲めるというほどあっさりした、
また、健康的な文章ではありません。
油ギトギトのラーメンというほどではないと思いますが、
胸焼け、食あたりを起こす可能性がある由、ご留意くださいますよう。

また、コメントは大歓迎です。
引用ももちろん大歓迎ですが、引用元の記事を明記していただけると幸いです。
それでは今日もはりきって行きましょう! どこへ? パチンコ屋へ。
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