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夏休みの宿題2016
ほんの8年前、おれは缶ジュースを買うことすらできなかった。
「精神と時の部屋」時代。
その頃書いたものを読み返すと、正直ポカンとしてしまう。以下は8年前の今日の日記。
「風に吹かれて」
二〇〇八年、八月二十三日、午後二時五十六分
Right up the darkness.「闇を光で照らすのさ」と、ボブ・マーリーを評して「アイアムレジェンド」というゾンビ映画の主人公は言った。悪いやつは毎日休まない。だから俺は怪我をしていても歌うんだとボブ・マーリーは言った。もちろん何が正しいのかなんて、誰にもわからない。
音楽について、考えている。僕たちが生まれる前、1970年代くらいまでは音楽は世界を光で包んでいたように思う(嫉妬だろうか?)。ボブ・マーリーは僕が生まれた次の年に死んでいる。ボブ・ディランも、ザ・ビートルズも、ロックもテクノもヒップホップも、すべてはポップの渦に呑み込まれてしまった。
友よ、答えは風に吹かれていると、ボブ・ディランは歌った。1990年代、小室哲也はあの膨大な作品群の中で何が言いたかったのだろうか。空前絶後のヒット曲群を残して彼も消えた。
風が吹いた後、残るものなんてほとんどない。ほとんどのものはどこかに吹き飛ばされてしまう。風が吹いた後、僕たちには何が残されているだろう。風とは何だろう? 果たして僕は文章でそれを表現しきることができるだろうか? 何にせよ、今の僕には音と言葉しかない。
この日のおれ(僕)は何が言いたかったのだろう? ふたりのボブの音楽(ムジカ)をおれは知っているんだぜ、と自慢したいのだろうか?(誰に向けて?) それとも風についての考察か? 仕事をクビになったことを風にたとえている? スカシた野郎だ……。つうか風が吹いた後、の後の文章が鬱陶しい。「残るものなんてほとんどない」「ほとんどのものはどこかに吹き飛ばされてしまう」そりゃ残らんだろ。「ほとんどほとんど」うるさいし。重複は小役とボーナスだけにしてくださいね。ともあれ、ひとりよがりなことは間違いない。語ること、書くことは、ある経験を翻訳することである、とメルロ=ポンティは言った。
音と言葉しかないのは今も同じ。