「人の話を聞けない人間は、何者にもなれない」
初対面の人にそう言われ、ぐぬぬ、となった。
「経験からしか物事の真実を引き出せないのであれば、80年の人生はただ80年の時間でしかない。しかし自分を捨て、他人の話を聞く。本を読む。そうすれば、人生は倍、何倍、何十倍にも広がっていく。まずは自分を捨てなければ」
たしかに、おっしゃるとおり。しかし、この、心に浮かんだ黒いモヤモヤはなんだろう? このとき私は、自分を否定された気分で一杯だった。
不思議なことに、人間は、自分の話をしているよりも、他人の話を聞いているほうが、強く自分を感じるものだ。自分が語る自分というのは、容易に捏造が可能である。自分で意図していなくても、勝手に改変してしまう。これこそが自我である。しかしながら、他人の語る話を聞く自分の感情は、(何処からか)勝手にわきあがってくる。捨てろ、と言われても、容易に捨てられない自分。これこそが、我執である。
たしかに、相手の意見を100%聞ければどんなにいいだろう? ただ、その場合、相手が間違っていた場合、あるいは悪しき人間だった場合、取り返しがつかなくなる危険性がある。ここは難しいところだ。
身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、という言葉もある。
古くは、学ぶはまねぶだった。師匠のすることを真似ようとしても、どうしても真似られない部分が出てくる。それこそが、自分を知り、負け方を学ぶ契機だった。が、どこかの地点で、おそらくは個性という言葉の蔓延とともに、別にいいや。オレはオレで。ワタシはワタシで。という風潮になった。
どちらが正しいということではない。ただし、ジ・オンリーワンなんて、幻想に過ぎない。すべての言葉は、既製品である。言葉は、自分より前にあり、人間(我々)は、それを借り受けることでしか、生活をスタートできない。当然、それ以前からあるものと、そこに誕生したものが融合するのだから、衝突する。そのことを、葛藤と言う。
先日、心の筋トレという言葉を使ったが、葛藤こそが、それかもしれない。衝突し、悩み、受け入れ、前に進む。
「人の話を聞けない人間は、何者にもなれない」
はい。