書くこと、賭けること

どうもはじめまして。スロ小説家のブログです。

すべての書かれたもののうちで私が愛するのは、自分の血で書かれたものだけだ。
血で書け。そうすればきみは、血が精神であることを経験するだろう。

フリードリヒ・ニーチェ 永井均訳
「ツァラトゥストラはこう語った」
読むことと書くこと、より

週刊我評第二十一週「恋愛という無理ゲー」


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第百二十八話「スロットで負けても、恋破れても、人生は続く」

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「雪松図屏風」円山応挙

人生で最大のギャンブルは恋愛である、とぼくは書いた。喜色満面の笑みで、どや、と。


なぜ、ギャンブルに負けるとつらいのか。

なぜ、恋愛でうまくいかないとつらいのか。

それは、ひとつの死だからである。レスポンスの返って来ないもの、それらはすべて死と同義である。キーボードをタンと叩く。「キーボードをタンと叩く」。よかった。まだ、生きている、とは思わない。極めて普通の現象だとぼくは思う。しかし、これがキーボードをタンと叩き、
























無反応だったら、動揺する。

無視されるのがつらいのも、同じ理由である。
それを他人にする。それは肉体こそ伴わないが、殺傷行為である。そう思う。

今日はぼくなりに、死を定義したいと思う。死。それは打っても響かないこと、つまり、「レスポンスの不在」である、と。

ぼくたちは(少なくとも自分のことを人間と定義しているなら誰だって)、不在に耐えられない存在として、存在している。

そんなぼくらには、これから、恐ろしい未来が(ほぼ確実に)待ち受けている。

愛するものの死、友の死、大恋愛の末の破局、事業の失敗、体力の低下、まずいラーメン屋に入ってしまう、バジ絆フリーズで300枚しか出ない、設定六で憤死、エトセトラ……, etc.

何にせよ、それらは自分の死、もしくは死に限りなく近いできごとである。

本当の自分の死については、思い煩う必要はないと思う。おそらく自分の死を自分で受け止めることはできないだろうから。
オラは永遠に生きる、という幼児的な魂が少しばかり残っているけれど、それでも自分の死は無と同義である、という感覚のほうが強い。

とすれば、死というものは、「レスポンスの不在」という形でしか、体験できないのである。
死に慣れることなんてできはしない。それでも、そのことを「ある」こととして受け止めることはできる。いや、できる、はずである。
だってぼくらは知っている。ギャンブルに手を出せば、ほとんど負けるということを。
そして自分の欲しいもの、手に入れたいものというのは、確率が低いということを。

ギャンブルの定義は色々あると思うが、ぼくは森巣博の言った「合意の略奪闘争」という言葉に合意したい。
ポイントは「合意」である。

もちろん恋愛も、第一に相手との「合意」が必要だろう。一方的な恋愛は空想的であり、場合によってはハラスメント的なものである。恋愛はひとりではできないのだから。

すべての依存症、わけてもギャンブル依存の問題は、この「合意」の部分が、麻薬的あるいは催眠的、つまり半強制的なところにあるのでは、と思う。自分のお金を自分の意志でかけて、戻ってこなかったら許せない、というのは、その「合意」に合意できていない証拠であると思う。
ぼくにとって敗北の味はいまだ苦く、苦しく、合意、そして納得の境地に至らないのが実情であり、精進しなければ、と決意を新たにする所存であるが、その合意の部分を、全員が納得でき、かつ、その場に臨むとしたら、どのような種類のギャンブルであれ、精神と肉体の極限の戦い、つまり、アスリートの棲むような修羅の世界と化すだろう。
おそらくギャンブルはそこまでの修羅場ではない。合意できていない人から、合意できている人がかっぱいでいくからである。

合意の前提には、ルールがある。そして同じルールで争った場合、ルールを熟知している人とルールを把握すらしていない人では、まず前者が勝つと相場が決まっている。
後者はルールに縛られるが、前者はルールに合わせて自分を調整できるのである。

箱に入れられた二匹の虫を想像してみると、わかりやすいかと思う。片方は箱の大きさを熟知しているが、片方は知らない。当然、後者の虫は、生存の欲求そのままに、飛んだり跳ねたりしようとする。しかし、箱の形に邪魔されるのである。前者の虫は、自滅を待つだけでよい。

勝ち方などというものはない。
負け方を熟知しているかどうか。

……いや、そんなことすらどうでもいいのかもしれない。

ぼくの定義した死というのは、まったく一般的な死ではない。スロットに負けたくらいで死というのなら、パチンコ屋は巨大なトラップであり、台はキリングマシーンであり、メーカーは死の商人になってしまう。
死=「レスポンスの不在」。それはほとんどぼくの造語、つまりファンタジーである。だからテクニカルな話はやめよう。

大切なことは、ぼくが本当に大切だと思うことは、何が起きても人生は続く、ということだ。
何が起きても人生は続く。
どうして? という疑問に意味はない。
それはただ、そういうことなのだ。
ふざけんな、と言っても何の効果もない。
天に唾をはいても、顔にかかるだけで、人生は続く。
他人を傷つけても人生は続く。
自傷しても、もちろん人生は続く。
死、すなわち、レスポンスの返ってこない行為を何度重ねても、人生は続く。
フラれても、スロットに負けても、友がこの世からいなくなっても、明日になればまた日は昇る。曇っていても、台風の日でも。

ゲーテは言った。

「コントロールの効かない行為は、
 どんな種類のものであれ、 
その行き着く先は、破滅だ」 と。

この言葉はとても大切なことを言っていると思うので、何度でも使いたい。

この地では、古くからパワーはコントロールできないもの、と定めていた。相手は八百万の自然だった。地震、雷、火事、オヤジ、台風、旱魃、疫病、云々。だから、あえて壊れやすいものを壊れやすいようにつくり、それを修繕し、あるいはつくりなおし、それで脈々と保ってきた。
何を。
たぶん、空気感のようなものを。

今からおよそ800年の昔、鴨長明はこう言った。
「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と。

その頃あった川で、まだ現存している川はいくらでもある。しかし、その内容はさっぱり違う。それを見つめる人間の目も、その川の中に住む生物も。

場所は変わり、今からおよそ1330年の昔、唐代の詩人はこう言った。
「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」と。
(ねんねんさいさいはなあいにたり、さいさいねんねんひとおなじからず)
年がたっても花は似た形をしているが、それを見る人間の顔ぶれは全然違う。

逆もまた、真である(と思う)。

パチンコ屋に居る人は、どこの地域でもわりと似たような人が多い。たぶん、どこかのパチンコ屋から、違うパチンコ屋にテレポートしたとしても、違和感がないのでは、と思うくらいに似た雰囲気がある。
海外に出る。CASINOに入る。そこでも似たような人が、似たようなことを、している。

いつも居る人、同じ人、似たような機種を、似たような顔で打っている。いつも、いつまでも。

どんなことが起きても、人生は続く。


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第百二十七話(表)「寿的、パチスロ稼働日記の書きかた」

今、どうしても、スロットの稼働日記を、書きたい。書きたくて、書きたくて、しょうがない、そんな人がこの世界に何人おられるのかは知らない。たぶん、いても数名だろう。その数名のためにこんな話題を書くわけではもちろんない。その数名は、書きたくてしょうがない時点でたぶん書いているはずだから。

需要がないのは知っている。それでも書くのが、ブログというものなのだ。笑

小説の書きかたという本はわりとたくさん売っている。文章作法、小説作法、などというタイトルで。もちろん需要もある程度あるのだろう。しかしそれらは基本的に、作者が作者のために書いている、という側面が強い(と思う)。

要は勉強のしかたみたいなものである。

1、学ぶ。

2、実践する。

3、教える。

3を経て、2にフィードバックされ、さらに、1、学ぶ、という仕組みである。

「ハウトゥイングリッシュ」または「ダイエット本」もほぼ同じである。コンプレックスを煽るという意味ではよりビジネスライクではあるが、根本的な問題として、それらの本は、何かを習得できた人間のものなのである。それを見て、「できねえぞ、このやどー」と思うのはお門違いなのだ。だってその人はできたのだから。

そのような本がなくなる可能性があるとすれば、人間にとって「勉強」の方法が、劇的に、または根本的に変わるときである。たとえば、攻殻機動隊における電脳システムになるとか。ダイレクトに脳にインターネットが接続されたとしたら、もう誰かに教える、説明する、というフィードバックシステムを採る必要がなさそうですよね。

まあ、我々の目がスロットのリールを追っている間にそんなことになるとは思えないし、なったらなったで考えるとして、今できることを精一杯やりましょう。

さて、稼働日記である。
その名もずばり、その日の、あるいは過日に行ったパチンコ屋における行動と結果、つまり、稼働を記したものであり、極めて個人的なものである。とはいえ、それは人様の目に触れる可能性のあるもの、つまり、「作品」である。「作品」には、「幹」が必要である。
テーマでも、人真似でも、自慢でも、自己顕示欲でも何でもいいが、「幹」すなわちモチベーションが必要なのである。

ともかく、「スロットの稼働を書くぞ」と思う。

何が必要かといって、店に行かねばはじまらない。 

ここで必要なのは、小説的な想像力ではない。まずは地味で地道で徹底的にリアリスティックなデータ、数字と事実のゴミ拾い的な収集である。

1、機種名。
2、なぜその台を打ったか。
3、展開。
4、獲得枚数。
5、写真。

打ちながら、メモをとる。
そのメモというのは、面白さゼロ、 言うなれば、キンニクにおけるプロテインみたいなものだ。

というわけで、最近あった一日のメモを書き写してみる(面白いものではないので、さっと飛ばしちゃってください)。

N店

ハーデス前日500で変更確認。

モンハン月下79 135やめ -2k
モンハン月下93 128やめ -1k

バジ絆 BC4スルー 278から(経過は省略)392巻物解除「お見事」黄色 三日月
174巻物解除「ようやった」白 満月
峠スタート207巻物解除「お見事」青 満月
19巻物解除「好機」緑 チャンス目2回、ベル2回、巻物 BT 追想+100 2連
129から 152やめ -1k

R店

マクロス 609 MBから中段チェリー 774BAR 50やめ -6k 何となく600から打ってみたけれど、注意深くいったほうがいいという感覚。浅いゲーム数から天井狙いよりも天国狙いか? 

AKB 211 235やめ -1k

北斗転生 最低774あべし テンハで1339解除(777および896のゾーンで演出なしで据え濃厚)2連304枚 残りテンハで103へ 130やめ -7k

T店

バジ絆 BT後333峠ステージ 406巻物解除「ようやった」白 三日月 1やめ -2k
     BT後303 325巻物解除「ようやった」黄色 強チェリー2回巻物 三日月 1やめ +0k

ハーデス 33ゲーム 35V 58やめ -1k

北斗転生 548+最低270あべし 615前兆開始 据え置き濃厚 台枠色矛盾 620天命 630解除 5連616枚 4やめ +9k

北斗転生 150ガルダステージ伝承確認 155テンハ→260へ 280やめ -2k
     
G店

バジ絆 連続BT台 178 強チェリー196解除「お見事」白 三日月
1巻物 4解除「お見事」白 三日月
峠スタート 4ベル 5プッシュ発展 9解除「お見事」青 満月
2タカ16弱チェリー 峠 23、24示唆リプ 27好機リプ 35好機リプ 38示唆リプ 40タカ弱チェリー 45屋敷へ 55抜け 62ムネリン 65ムネリン 66契機不明発展 70巻物 73解除 「嬉しく」青 
BTゲット 単発 128枚
31から 45巻物 48解除「お見事」青 三日月
峠スタート 39やめ  +1k

バジ絆 4抜け 54 (モードC予想)410巻物解除「お見事」青 巻物
BTゲット 2連 250枚 
75から 110やめ -8k

マクロスMB (+0.2k)持ちコインを横の台に持って移動。

マクロス659&MB 続行 1099弱スイカ?解除 続行 56弱スイカor弱チェリーorチャンス目解除 BAR 契機不明ART 35やめ (さっきの0.2kを入れて)-12k やはり出るイメージなし。キツイ印象変わらず。当面の間は700オーバーを狙おうかな。

モンキー 5 ロゴあり 128やめ -4k

負け。ラーメンを食べて帰宅。



あたりまえのことながら、読み物として、面白くはない。

が、利点はある。このメモを見るだけで、そして書き写すだけで、自分の行動の意義、意味、正当化、反省までが行えるのだ。

さて、これをもとに稼働日記を書こう。

まずは「タイトル」を決める。
ぼくの稼働日記にとってタイトルは設計図である。

タイトルの根幹になるのは、ほとんどの場合、偶然の力だ。
「フリーズ引いた」だとか。
「~連した」だとか。
「はまりまくった」だとか。
「たくさん負けた」だとか。

しかし、この日の稼働には特筆すべきところが何もない。しいて言えば、追想で+100を引いたくらいである。
もちろん、だからこそ、この日の稼働はお蔵入りになったのだが、それでもどうしてもこの日の稼働をアップしなければいけない状況になったとして、さあ、どうする? という話である。

ここからは、ドキュメンタリー映画の監督である。題材は与えられた。限られた素材でより遠くまで飛べるものをつくらねばならない。
フィクションは自由な想像の翼で飛ぶが、ドキュメンタリーは与えられた題材で飛ぶのである。

リアルとは、稼働メモのことである。しかしそのリアルは作品にはなりえない。
ART(アート)の反義語はNATURE(自然)である。つまり作品とは人が関わったもののことであり、人の手が工夫したものである。工夫の工とは、天上世界と地上世界を一本の棒が支えているかのごとき漢字であり、その棒こそつくりての存在であり、人間の存在の証明なのである。

さて、寿的流言飛語をのたまったところで、どうしたもんか。素材は無味無臭のものばかり。

ふと、稼働の後に食べたラーメンを主題にする案を思いつく。



第百二十七話(裏)「稼働の後のラーメン」 

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ラーメンはしょっぱい。
なぜ人は、しょっぱい味にひかれるのだろうか。それは、塩分が必要だからである。塩分はどんどん人間の体から流れていく。なぜか。涙が出るからだ。なぜ、涙が出るか。哀しいからだ。なぜ哀しいのか。
スロットに勝てないからだ。

ラーメンには脂が浮かんでいる。
にくづきに旨いと書いて脂。なぜ人間は脂を欲するのか。それは、脂が必要だからである。脂はどんどん外に出て行ってしまう。なぜか。脂汗を流すからだ。なぜ、脂汗が流れるか。ドギマギするからだ。なぜ、ドギマギするか。お金がどんどん出て行くからだ。なぜ、お金がどんどん出て行くか。
スロットに勝てないからだ。

スロットに勝てない。スロットに勝てないから、涙も脂もお金も出て行ってしまうのだ。

ずるずるとラーメンをすする。青ネギを、また、チャーシューを口の中にぶっこむ。口の中の油分を流すように、冷水を飲む。ラーメンをすする。スープを飲む。口の中の油分を流すように、冷水をゴクゴクと飲む。

今日のトータル-37k ラーメンが美味い!


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うーん(苦笑)。
正直、そんなに面白いものにはならなかったなあ。

しかし、得たものがあるような気もする。
題材をこねくりまわしている時間に、ふと、何か、一瞬の閃き(by特攻の拓「スピードの向こう側」)のようなものが見えるときがある。

ラーメンって、色々と過剰すぎません? 
たとえば、牛丼とか、チャーハンとか、寿司とか、カレーとか、ハンバーガーとか、ピザとかに比べ、ラーメンって突出して何かが過剰な気がする。
なぜ、人は過剰を欲するのだろうか?

ゲーテは言った。

「知る事よりも、考える事のほうが面白いが、直観する事のほうが考える事より面白い」と。


ラーメンの味は、過剰である。
なぜ過剰を欲するかというと、どこかに欠落があるからである。
少なくとも、この日のぼくは、パチンコ屋で出て行ってしまった何かを補うために、ラーメンを食べたのだ。たぶん。

稼働する。
稼働を振り返り、記事を書く。

なぜ、スロブロガーはブログに飯の種を載せるのか。
第百十五話「なぜスロブロガーはブログに飯の種を載せるのか」で書いたのとは別の理由がここにある。

スロブロガーは、一日に二回スロットを打つのである。


 
作者 寿
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ふと思う。スロ歴ってどれくらいなんだろう? 今年で19年? そんな経つ? ピーいれたいね。スロットばっか打ってるわけじゃなくて、普段は小説書いてんすよ。ちっとも売れないけどね。つうか売ってないしね。けどこのブログだと読めんすよ。フォウ!

ブログポリシー「my rights sometimes samurai!」
当ブログは、寿という人でなしが小説を書くなかで、
また、スロットを打つなかで、
はみ出たものを一所懸命につづったものです。
基本的に毎日更新してはいますが、
毎朝グビグビ飲めるというほどあっさりした、
また、健康的な文章ではありません。
油ギトギトのラーメンというほどではないと思いますが、
胸焼け、食あたりを起こす可能性がある由、ご留意くださいますよう。

また、コメントは大歓迎です。
引用ももちろん大歓迎ですが、引用元の記事を明記していただけると幸いです。
それでは今日もはりきって行きましょう! どこへ? パチンコ屋へ。
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